第92回 本田宗一郎(その三)経営不振のときに、会社の復活を願って人生を賭けた蕩尽。その中身とは---

昭和21年10月、本田宗一郎は浜松市山下町の焼け残った町工場を買い取り、「本田技術研究所」を立ち上げた。わずか十数人の従業員たちとのスタートだった。
最初のヒット作は原動機付き自転車である。旧陸軍六号無線機用の小型エンジンをスクラップ同様の価格で買い取り、「インスタントオートバイ」を作り出した。

出だしは好調で、2年後には、本田技研工業株式会社が誕生する。
24年。
宗一郎は、生涯のパートナーを得た。
藤沢武夫である。
藤沢は小石川生まれの江戸っ子で、京華中学を卒業後、会社勤務を経て、「日本機工研究所」という切削工具を作る工場を開いた。

二人を引き合わせたのは、当時、通産省の官僚、竹島弘であった。
初対面で藤沢は「あなたはこの先、金の心配はいっさいしないで十分物づくりに励んで下さい。他はすべて、このあたしが引き受ける」と豪語した。

そして昭和32年。
宗一郎は、イギリスのマン島で毎年行われるオートバイの世界選手権を見学した。
これはツーリスト・トロフィーレースと云って、世界最高峰を目指すもので、伝統も技術も際立った有名なレースだった。
一周60キロのコース7周、計420キロという大きなレースであった。
出場するオートバイも、日本では到底造れない精密かつ耐久力も秀でたエンジンが、鎬を削るのである。

1万3000回転というのは、1秒間にエンジンが100回以上爆発しないと、出せない回転数だった。日本の技術では、7500回転がせいぜいであった。
いつになったら、日本で、こんなエンジンを作る事が出来るのだろう・・・・・・宗一郎は、真剣に悩むと同時に闘志を燃やした。

「必ずスピードに勝って、日本のエンジン技術を世界に披瀝してやろう」

しかし、この頃会社は経営不振にあえいでいた。
設備の一大近代化をはかるために、アメリカに新鋭機械を発注し莫大な投資をしたというのに、カブ号、ドリーム号、ベンリィ号などそれまでのドル箱商品が頭打ちとなり、新車のスクーターも売れ行き不振に陥ってしまったのだ。
果たして莫大な投資とはどれほどのものだったのか。

実に4億5000万円である。資本金たかだか1500万円の会社では到底ありえない額だ。しかし、宗一郎は断行した。これこそ、人生を賭けた蕩尽である。

「こうなったら、本田の兄貴と心中しよう」と腹をくくった藤沢の必死の資金繰りと「ベンリィ号」改良型のヒットにより、会社はもちなおした。

34年、マン島レースに初出場したホンダは5位入賞を果たした。
さらに2年後の同レースでは、125㏄、250㏄の2つのクラスで1~5位をホンダが独占し、完全優勝を果たしたのである。