「冷え」と「肩こり」の謎---『冷えと肩こり―身体感覚の考古学』著・白杉悦雄

ほとんどの日本人を相手にして、「冷え」や「肩こり」について説明する必要はないであろう。まだ若くて元気で、自分では「肩こり」の経験がない人でも、祖父母や父母の肩を揉んだり叩いたりした経験をもつ人は少なくないはずだ。また、「冷え」は女性に多い自覚症状とされ、最近の各種統計調査でも女性の二人に一人、少なくとも三人に一人は「冷え」の自覚があるとされている。

では、われわれ現代日本人にとって日常的で身近な経験である「冷え」や「肩こり」に、いったいどんな「謎」があるというのか。

手もとの医学大辞典によれば、「肩こり」は、僧帽筋を中心とした肩甲骨周辺の筋肉のこり、はり、こわばり、重圧感、痛みなどの総称である。原因としては、高血圧、更年期障害、頸椎疾患、胸郭出口症候群、なで肩などが考えられている。

「冷え症」は、自律神経失調症によって起こる症状群の一つで、手足の冷感などの自覚症状を主とするものである。自律神経機能の失調が血管運動神経を障害し、冷感部位の毛細管の血行が妨げられ、その結果冷たく感ずるとされている。

つまり、「肩こり」についても「冷え」についても、現代医学による謎解きは、すでに完了しているようにみえる。

しかし、本当にそうなのか。

私の師の一人である栗山茂久(ハーバード大学教授)によれば、彼の永い外国暮らしのなかで、「肩が凝った」に相当する訴えは、一度も耳にしていない、という。さらに、英語ばかりか、ドイツ語、フランス語、そして日本に数多くの医学用語を提供してきた中国語にも、肩こりの苦痛を表すことばはない(「肩こり考」『歴史の中の病と医学』1997)。

もちろん、そのことばがないから、その病や苦痛がない、とはいえない。だが、栗山が紹介する大塚恭男(北里大学東洋医学総合研究所三代所長)の「かつて三年余を過ごしたドイツでも、いかに肩こりを説明しても理解してもらえなかった」(『漢方と薬のはなし』1994)という経験を、どう受けとめればよいのか。

栗山や大塚の体験談からは、日本人だけが「肩こり」を経験し、欧米人や中国人には「肩こり」の経験がなく、それを認識し表現することばもない、という印象をうける。「冷え」の場合も、「日本人のとくに女性に多い症状」という言いかたがなされることが多い。

逆の例も少なくない。1995年9月3日~9日に開催された国際比較医学史シンポジウムでは、さまざまな文化に特有の身体経験Local diseasesが報告された。たとえば、フランス人にとってのCrise de foie(肝臓発作)、ドイツ人にとってのKreislauf(循環不全)、ベトナム人にとってのCam(感)などの報告は、たいへん興味深いものである。そして、日本人に特有の身体経験として、「肩こり」(栗山茂久)が報告されている。

これらのLocal diseasesは、フランス人やドイツ人、そしてベトナム人にとっては、現在でも説明するまでもない、日常的な身体経験であり、仕事や学校を休む理由として社会的に通用する病である。だが、日本人には聞いたことのないことばであるし、理解しがたい、経験することのない身体経験である。つまり文化圏が異なれば、相互理解が不可能な、あるいは理解が困難な身体経験、疾病が存在するのである。

北中淳子(慶應義塾大学准教授)は、日本で現在、「うつ病」に注目が集まっているが、この「うつ病」の台頭にたいして、精神医学者や人類学者のあいだで、文化的・社会的に新しい現象であるとして関心が向けられている、という。なぜなら、これまで「うつ病」は、もっぱら「西洋的」な病として語られ、日本を含む「非西洋」の国ぐにでは歴史的にも稀であることが繰り返し指摘されてきたからである(「鬱の病」『近代日本の身体感覚』2004)。

日本人だけが経験する、あるいは日本人にとくに多い症状や苦痛があり、かたや、もっぱら「西洋的」な、あるいは、ある文化的な病として語られるものがある。
「冷え」や「肩こり」は、ある時代、ある文化、ある人びとが身体をどう感じたのか、どうしてそう感じたのか、というパズルをわれわれに投げかけている。

ところで、『冷えと肩こり―身体感覚の考古学』(講談社選書メチエ)では、そのパズルを解けたのか、と問われれば、どうやらさらなる謎への招待状のようでもある。

(しらすぎ・えつお 
東北芸術工科大学芸術工学研究科長、中国および日本の医学思想史)
講談社 
読書人「本」9月号より

白杉悦雄(しらすぎ・えつお)
1951年、北海道生まれ。1975年、中央大学法学部卒業。1994年、京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。京都大学博士(文学)。現在、東北芸術工科大学大学院芸術工学研究科長、同大学教養教育センター長。専門は中国及び日本の医学思想史、中国科学史。日本中国学会賞(哲学・思想部門)受賞。

著:白杉悦雄
冷えと肩こり 身体感覚の考古学
(講談社選書メチエ/税抜価格:1,550円)

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