第91回 本田宗一郎(その二) なんでも修理して特許も取得---金を儲けるとすぐ社員と遊びに行った

震災後、アート商会の主人が芝浦にある工場で、焼けたままほったらかしにされていたたくさんの自動車の修理を引き受けることになった。
15、6人いた修理工たちも、ほとんど田舎に帰ってしまったので、宗一郎と兄弟子で修理にかかった。

スプリングにしても、シャーシーにしても何で作ったものかわからない有様だった。とにかく、自動車の体裁を整えるに終始した。
いざ組み立ててみると、エンジンはきちんと掛かった。
宗一郎自身、不思議に思うほどだった。
すると主人が、その車を高く売りつけに行ってきた。

「これだって、立派なニューカーだからな」

一番、困ったのは、スポークであった。
当時の自動車は、みんな木製だった。
車大工でさえ、作れなかったのだから、苦労するのも、当然だったのである。

六年間で、宗一郎は、自動車の機構はもちろん、修理のコツも習得した。
自動車の運転も出来るようになった。
いよいよ年季も明け、浜松に帰った。

主人から分けてもらった、「アート商会浜松支店」を開き、一本立ちになった。
父親は、宗一郎の開店を喜び、家屋敷と米一俵を贈ってくれたという。
とにかく、なんでも修理したので、次第に一目置かれるようになり、その年の暮れには、80円の純益を出した。

もっとも目覚ましかったのは、さんざん悩ませられていた、木製のスポークを廃し鉄製にして、特許を取得したことである。
鉄製スポークは、大変な評判を呼んだ。
インドまで、輸出されたのであるから、日本の中小企業としては、めざましい成果と云えるだろう。

25歳で月に千円の利益をあげられるようになった宗一郎だったが、金を儲けるとすぐに社員を連れて遊びに行くので、金は全くたまらなかった。
浜松芸者を連れて、静岡まで花見に行ったというのだから、相当の遊び好きだ。

昭和11年7月。
宗一郎は、31歳になっていた。
コンクリートで固めた競走場は、青い芝生と白線に仕切られている。
やがてスターターのホイッスルが鳴り、宗一郎はスロットルを開いた。
フォードをレーサーに改造した愛車は轟音とともに、弾丸のようにとびだしていった。

エンジンの響きが、自らの体の中で震えているようだった。
レースは、予想通り宗一郎の圧勝のはずだった・・・・・・が、突然修理中の車が横からトラックにはいってきた。
次の瞬間、宗一郎の車は、もんどり打って跳ねかえっていた。
ぐらりと自らの身体が大きく回転した。
車から放り出された宗一郎は、地面に叩きつけられ、跳ねて二度目の衝撃を受けた。

一にも技術、二にも技術で革新しなければならない

意識を回復した時、宗一郎は、顔中に熱湯をかけられたような、痛みを感じたという。
にもかかわらず、激痛のなかでも、自分の生命を感じていたという。
宗一郎は痛みに耐えながら、云った。