読書人の雑誌『本』
名もなき工女たちの紡ぎしもの---『探偵工女 富岡製糸場の密室』著・翔田寛

昨年の富士山に続いて、今年の六月、群馬県にある富岡製糸場が世界遺産に登録された。すでに訪れたことのある方も多いと思うが、想像を絶する広大な規模、赤煉瓦造りの豪壮な建築物群、繰糸所にびっしりと並んだ機械類の壮観な眺めなど、まさに一見の価値あること請け合いである。

しかも、この製糸場が建設されたのが、文明開化の幕が開けて間もない明治四~五年だったと知れば、驚愕はさらに深まることだろう。操業開始当時、ここではフランス人たちの指導のもと、猛烈な機械音と、蚕の繭を煮る蒸気の熱気に取り巻かれながら、約二百名のうら若き工女たちが懸命に働いていたというのだ。私もここを訪れたとき、賛嘆の念に打たれながら場内を巡るうちに、そんな往時の情景の幻とともに、もう一つの思いが胸の裡にありありと浮かんできたものだった。

その富岡製糸場を舞台にした私の新作、『探偵工女 富岡製糸場の密室』を構想したのは、たしか三年前だったと思う。前作の『築地ファントムホテル』が手を離れて、さて次にどのような物語を作り上げようかと考えたとき、歴史年表の《富岡製糸場の建設》という文字に目が留まったのである。日本最初の西洋人専用のホテル《築地ホテル館》が、銀座周辺を含む大火災で焼失したその同じ年に、日本最初の西洋式製糸場が開業したのか、と。

フランス人のポール・ブリュナという専門家を招き、約二十万両という途方もない予算を傾注して建設された前例のない大規模な西洋建築の一室内で、一人の工女が不可解な死を遂げる、というのはどうだろう。前作の『築地ファントムホテル』では、客の出入りが完璧に管理された西洋人専用のホテルの客室内でイギリス人の刺殺体が発見され、同時にその室内で鎧兜姿の異様な人物が目撃されるという設定だったが、今回は、室内で工女が刺殺されているのに、扉の内側から閂が掛けられており、しかも室内には凶器が残されていなかった、という密室物にしてみようではないか。

そして、前作の事件解明に取り組んだ探偵役が、実在のイギリス人写真家と若き侍だったのに対して、今回は尾高勇という十四歳の工女と、司法省警保寮の警部という組み合わせが面白いかもしれない。尾高勇もまた富岡製糸場の工女第一号となった実在の女性であり、初代場長の尾高惇忠の娘にほかならないからだ。いつものことながら、歴史的事実を基にして、小説の構想を練り上げる作業は、土台となる史実を無視することが許されないだけに、困難の多い作業だった。

ところで、場長の娘が工女第一号となったのには、それなりの理由があったらしい。すなわち、フランス人たちが人の生血を吞むという噂が流布したからだという。彼らが赤ワインを口にする様子が、そんなとんでもない誤解を招いてしまったのである。そのために、工女集めに苦心した尾高惇忠は、娘の勇を率先して工女として入場させたのだった。もっとも、文明開化当時、これに類する流言飛語の類は珍しくなかったらしい。例えば、富岡製糸場が建設される前年、安芸と長門において、通信用の電線に未婚女性の生血が塗られるという奇怪な噂が広まり、大騒ぎとなったというのは、かなり有名な話である。

ともあれ、群馬県富岡市に、見たこともない西洋建築物が忽然と出現した当時、人々の驚きと畏怖、それに反発は、我々現代人の想像をはるかに超えるものだったろう。しかし、歴史が大きく動く狭間で、大衆が感じたものとは、果たして、それだけだったのだろうか。徳川幕府が瓦解し、廃藩置県により、何十万という侍たちが職を失い、さらに多くの民衆が旧幕時代と変わらぬ重税にあえぐ中で、尾高勇をはじめとする数多の工女たちが、まったく未知の製糸場に決然として就労し、外見も言葉も異なるフランス人たちの指導を受けながら、西洋式の製糸技術の習得に邁進したのは、そこに明るい希望を感じ取ったからではないだろうか。

富岡製糸場を訪れたおり、私が感じたものとは、場内に幾重にも堆積した数知れぬ工女たちの喜怒哀楽の声なき声だったのである。そして、新作で描きたかったものも、額に汗して働く工女たちが、未来へ託した夢にほかならなかった。そう、今日まで残る富岡製糸場の長く偉大な歴史を紡ぎだしてきたのは、数多の名もなき工女たちだったのだから。

(しょうだ・かん 作家)
講談社 読書人「本」9月号より

翔田寛(しょうだ・かん)
1958年東京生まれ。2000年「影踏み鬼」で第22回小説推理新人賞を受賞しデビュー。2008年『誘拐児』で第54回江戸川乱歩賞を受賞。ミステリーと時代小説の両ジャンルで健筆をふるっており、2014年、「墓石の呼ぶ声」で第67回日本推理作家協会賞短編部門候補となった。他の著書に『逃亡戦犯』『築地ファントムホテル』などがある。

著:翔田 寛
探偵工女 富岡製糸場の密室
(税抜価格:1,500円)

日本の近代化を推進する原動力として、明治新政府が総力を挙げて建設した富岡製糸場。開業翌年の明治5年、この大規模器械式製糸場内で、若き工女が惨殺死体となって発見された。
密室殺人の裏に隠された意外な真相に、被害者の傍輩である工女が迫る。『誘拐児』ほかで時空を超える人間の業と謎を探求し続ける江戸川乱歩賞作家による、近代日本ミステリー。


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