第90回 本田宗一郎(その一)「競争とは、相手の不幸を願うもの」---ユニークな発言をした経営者の悪童時代

本田宗一郎は、数ある日本の、あるいは世界の経営者の中でも、格別ユニークな存在である。
宗一郎は、次のような言葉を残している。

〇謝る事は奴隷のすることである。反省こそ真の謝り方であり、将来発展の基礎である。
○競争とは、相手の不幸を願うものである。
○習慣を破ることは、勇気のある人の行うことである。

顰蹙を買う発言ではあるけれど、宗一郎の面目が躍如としていて、実に面白い。

1906年、現在は浜松市の一部となった、磐田郡光明村の鍛冶屋の倅として生まれた。
物心が付くか付かぬかの間に、屑鉄を折り曲げたり、分解したりしては得意になっていたという。
着物の袖は、滴り落ちる青っ洟で、塗り固められていた。
母は、冬には洟がカチンカチンになるので、おかしくて叱れなかったと云う。

尋常科の2年の時、家から20キロ位離れた浜松歩兵連隊に、飛行機が来た。
飛行機を見るには、入場料を払わなければならなかった。
2銭もあれば、見られると思っていたが、実際には10銭が必要だった。
父親は、入場料金を出してくれない。
しかし、宗一郎は、諦めなかった。

飛行機が見られそうな松の木に取りつき、よじ登って一念を遂げようとした。
周囲に気を配り、下から見つけられないように、枝を折って、遮蔽したという。
子供ながら、万全を期した、という処だろうか。

3年、4年と学年が進むにつれて、宗一郎の悪戯は激しくなっていった。
職員室の金魚が、赤いものばかりで、面白くないと云って、青や黄色のエナメルを塗りたくったり。
家に帰れば帰ったで、悪戯の種には不自由しなかった。
隣家の石屋が作っている石地蔵の鼻が気に入らないというので、金槌で彫り直そうとして鼻を欠いてしまったり。

「私の少年時代には、このような悪童行為のほかにはほとんど何もないといっても過言ではなさそうだが、その間にあってただ一つ―私がやりつづけたことは、機械をいじくりまわすことと、『立川文庫』を耽読したことぐらいであろう」(本田宗一郎『スピードに生きる』)

震災を境にして、一人前の修理工になった

宗一郎は、尋常科から高等科に進学したが、相変わらず、学業は苦手だった。
高等科も、まもなく卒業する頃、『輪業の世界』という雑誌を読んでいると、広告欄に目がとまった。
東京の『アート商会』が、丁稚、小僧の募集広告を出していたのである。
宗一郎は、高等科を終えると、アート商会に入るべく父に伴われて上京した。
東京駅に降りて、驚いた。
夢にまで見ていた自動車が、まるで蟻のように走りまわっている。
田舎者の父と宗一郎は、ようやく『アート商会』を探しあてた。

けれど、現実は厳しかった。
自動車に触れる事などできず、仕事といえば主人の子供のお守りをすることだった。
兄弟子たちには、「お前の背中には、いつも地図が描いてあるじゃないか」と、からかわれた。「地図」とは、赤ん坊の小便の謂である。