官々愕々 原発問題「司法への期待」
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7月31日、東京電力の勝俣恒久元会長らの刑事責任に関して、東京第五検察審査会が「起訴すべきだ」という判断を下したことが大きく報道された。

この議決は、多くの点で画期的だ。まず、福島の原発事故が起きたという事実を極めて重く受け止め、被災者の「思いを感じる」と述べている。今回の事故では、誰も責任を取っていない。被災者はそれが極めて理不尽だと感じている。この議決は、被災者目線で判断したということだ。

その対極にあるのが検察だ。巨大組織で事故が起きた時、現場を知らないトップは事故を予測できない、従って責任もないというのが「検察の常識」。今回も検察は不起訴とした。審査会はその「検察の常識」に真っ向から挑んだ。

原発事業者の責任は、他の事業を行う者よりも格段に重い。従って、事故の予見可能性についても通常の事故と違い、ある程度合理性のある学説やシミュレーションなどで危険性が示されれば、それが具体的にいつごろどういう形で起きるか詳細にわからなくても対策を講じる義務がある。そして、勝俣会長らが出席した会議で、非常に高い津波が来る可能性についての報告がなされていたことをもって、そうした危険性を認識した、従って勝俣氏には責任があると結論付けた。

この議決は、関西電力大飯原発3、4号機の再稼動差し止めを命じた、今年5月の福井地裁の判決と軌を一にする。その判決は、国民の憲法上の最高の権利である人格権の中でも、生命を守り生活を維持する権利を経済活動の自由よりも上位にあるとした。原発で電気代が上がるとか貿易収支が悪化することよりも、生命や生活の基盤を失うかもしれないということの方がはるかに大事だということだ。事故の際の被害の甚大性などを理由に、万が一にも事故の危険があれば原発を動かすべきではないということも明確に述べている。

さらに、人格権を守るのは裁判所の最高の責務であって、これを放棄することは許されないとも述べている。司法が国民の側に立つことを高らかに宣言したものだ。

以上二つの判断が示す一連の論理を推し進めると、福島事故に関する刑事責任について、経産省関係者の刑事責任を問うことも可能になるはずだ。

原子力安全・保安院(当時)では、それまでの予測よりはるかに高い津波が来ることを知りながら、それを握りつぶした。当時の幹部は次官にまで上り詰め、退職時に、「大変申し訳ない」というようなことを言っていたが、結局は天下りして、ものすごい高給をもらい、自分だけは悠々自適のセレブ生活を送っている。県外への避難者が4万人以上もいる現状と比べ、憤りを覚える人は多いだろう。

検察は、これまでの姿勢を改めて強制捜査を実施し、東電幹部のみならず、経産省関係者の立件にも全力を挙げるべきだ。仮に不起訴となっても、次の検察審査会で起訴相当となり強制起訴されることが期待される。

期待といえば、もう一つある。秋にも再稼動が想定される九州電力の川内原発再稼動差し止め訴訟だ。川内原発では、避難計画の杜撰さが極めて明白である。普通の裁判官なら差し止めが認められる可能性は高い。

政府は、再稼動を強行するのだろうか。強行すれば、脱原発の世論が一気に盛り上がる。秋の沖縄や福島の知事選への影響を嫌って、政府は再稼動を冬に延ばす動きも見せる。

国民は今、政府はもちろん野党にも頼れない。最後の頼みの綱として、司法への期待が大きく膨らんでいる。

『週刊現代』2014年8月30日号より

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原発は「倫理的」に許されないエネルギーだという議論をすると、それは「感情的」あるいは「主観的」な議論であるというレッテル張りをされる傾向があります。経済論や技術論は受け入れられても倫理論は受け入れられないのが現状だと言ってよいでしょう。しかし、倫理の問題は、経済や技術の分野でも非常に重要な問題です。二人の元総理(小泉氏と細川氏)が期せずして脱原発を「人の生き方の問題」「倫理の問題」として語り始めたことは、極めて重要な意味があります。私が小泉氏や細川氏に期待するのは、大きな哲学、「脱原発の倫理観」を国民に提示し、国民的大議論を巻き起こすことです。議論の末、国民の大多数が新しい日本の生き方、「脱原発と再生可能エネルギーで、自然とともに生きる国日本」を目指すという共通の目標に到達すれば、その時初めて、脱原発が可能になるのだと思います。――<「はじめに」より抜粋>

※本書は2013年5月に先行発売した電子書籍『原発の倫理学 古賀茂明の論考』の内容を大幅にアップデートした上で再編集したものです。