第89回 パブロ・ピカソ(その四)大戦で抑圧に対するシンボルになった。共産党に入党し、拍手喝采されて---

2014年08月23日(土) 福田 和也

1944年2月、フランスの詩人マックス・ジャコブは、サン・ブノワ・シュル・ロワールでユダヤ人として逮捕された。
行き先は、アウシュヴィッツか、ダッハウと決まっていた。マックスは、ジャン・コクトーに手紙を書いた。

「親愛なるジャン、まわりを固めた憲兵たちがお目こぼしをしてくれたので、列車のなかでこの手紙を書いている」

友人たちは、すぐに出来るだけの伝手をたどって救援活動を始めていた。
ところが、ピカソは協力を拒否し、関心がないと云ったという。

「そんなことをする必要はないさ。マックスは小さな悪魔だ。刑務所から逃げ出すのに助けはいらないよ」

釈放に至らず死んだマックスの追悼式が、サン・ロッシュ教会で営まれた。
ピカソも出かけたが、出席はしなかった。
教会の中庭をうろついて、すぐに帰ってしまった。

6月、太陽の光が戻ってきた。連合軍が、ノルマンディに上陸したのである。
そして8月、連合軍はパリに入城し、抑圧者に抗したパリ市民も蜂起し加わった。
ピカソは慎重に、自らの進退を図った。
グラン・ゾーギュスタン通りの豪奢なヴィラから離れて、アンリ四世通りの家に移り、マリー・テレーズと娘・マヤと共にいた。
ピカソは、マヤのポートレートを描くことで、不安を紛らわせていた。

ところが、意外な事に、ピカソは、単に世界に名だたる有名人というだけでなく、抑圧に対するシンボル、生きのびたヨーロッパの象徴とみなされたのである。
マックス・ジャコブの一件を思いかえしても、彼は、けして象徴としてみなされるべき存在ではなかったのだが。

ピカソは、鳩を頭や肩にとまらせて写真に収まり、ヤンキーをアトリエに招き入れ、「本当にありがとう」と、スペイン訛りの魅力的なフランス語で礼を云ってチョコレートやコーヒー、果物などのプレゼントを貰った。

そうした訪問客の一人に、アーネスト・ヘミングウェイがいた。
折り悪く、ピカソは外出していた。
門番が、あなたも、ムッシュ・ピカソに贈り物をしたのか、と問うた。
ヘミングウェイは、車にとって返すと、手榴弾を一箱もってきて、こう書いた。

「ピカソへ、ヘミングウェイより」

パリ解放から一ヵ月過ぎて、とてつもないニュースが公表された。
ピカソが、共産党に入党した、と云うのである。
共産党のイデオローグたちは、苦心惨憺して、ピカソの奔放極まりない作品に対する賛美と、社会主義リアリズムを両立させなければならなくなった。
一方、ピカソは、共産党に入党したことで、受難者の役割を、いい気持ちで演じた上に、拍手喝采まで浴びたのである。

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