第88回 パブロ・ピカソ(その三)ロシアバレエと深く付き合った。そして、ダンディな社交界の寵児に---

2014年08月08日(金) 福田 和也

1917年、革命が起き、ロシアの皇帝は、退位をよぎなくされた。
そして皇帝にかわって、セルゲイ・ディアギレフが登場し、ロシアバレエが、パリを席巻したのである。

ピカソにとって、作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーはまさに新発見だった。
そしてストラヴィンスキーにとっても、ピカソは大発見だったのである。
かつて皇帝のために歌い、踊った者たちは、いまや皇帝を一顧だにしなくなった。

3月中旬、ロシアバレエ団はローマを発ってサンカルロ歌劇場での公演のためにナポリに向かい、ピカソとジャン・コクトーも同行した。
2人は、ほとんどの時間を一緒にすごし、水族館やヴェスヴィオ火山や、ポンペイの遺跡を見て歩き、夜になると女性を誘惑しようと狭い路地まで入り込んでいった。

ディアギレフは、ピカソに忠告した。

「気をつけないと、ロシア娘と結婚させられるぞ!」

冗談だろう、とピカソは言った。

しかし、ピカソも美術を担当したバレエ『パラード』の作曲家、エリック・サティの一件は、かなり剣呑な事態に発展してしまった。
「ラ・グリマス」という雑誌が、サティを批判したのである。

「調子はずれの道化師サティは、タイプライターや騒音を用いて作曲し、共犯者ピカソは人間の永遠の愚かしさを明らかにした・・・・・・」

 批評に激怒したサティは、すぐに葉書を送った。

「拝啓、あなたは正真正銘のまぬけ、しかも音楽が分らないまぬけだ!」

批評家は、サティを名誉棄損で訴えた。
しかも刑事事件として告訴されたため、サティは一週間の実刑を受ける事になった。
サティが刑務所に送られた頃、ピカソはディアギレフの一座とともにバルセロナへ向かった。

バルセロナでピカソは、英雄として歓迎された。
父親が亡くなって以来の帰郷だったため、朋輩たちは、お祭り騒ぎで彼を迎えた。

ピカソは、ダンディになり、社交界の寵児になったが、従来の完全主義者ぶりは、失われていなかった。
パリに戻ってくると、キュビズムはすでにピカソにとっては、手垢のついた物にしか見えなかった。

そして狂気じみた栄光の時代が訪れた。
パリは、『失われた世代』の中心地となった。
ヘミングウェイ、ジェイムス・ジョイス、スコットとゼルダのフィッツジェラルド夫妻もいた。
パリは、ダダイズムにはうってつけの土地だった。
トリスタン・ツァラがチューリッヒではじめたこの運動は、三人のフランス人―ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポーにより継承された。

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