ブルーバックス
『もの忘れの脳科学』
最新の認知心理学が解き明かす記憶のふしぎ
苧阪満里子=著

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なぜ起こる? どう防ぐ?

 日常のありふれたもの忘れの多くは、認知症や記憶力の低下によるものとは限りません。記憶システムの1つワーキングメモリをうまく使いこなせていないことが原因です。もの忘れをしたから認知症ではないか……と不安に思うことがかえって悪影響になることも。もの忘れの起こるしくみや記憶力を維持する方法を最新の認知心理学をもとに丁寧に紹介していきます。


はじめに

 高齢化社会に直面しつつある現在、身体の健康とともに、こころの健康を保つことにも関心が集まっている。特に、記憶力の維持に高い関心が向けられている。こうした関心は、高齢期にさしかかった人たちだけでなく、まだ若い世代の人たちにも見られる。理由の一つには、加齢により認知障害を持つようになった高齢者の例を報道などで知る機会が多くなったこともあるだろう。また、高齢者を介護する立場の人たちが増えていることも原因の一つであろう。

 加齢により増加する認知障害として重要視されているのが認知症である。認知症では、疾患などにより一旦は獲得していた知的能力が障害をうけて、記憶や行動の障害、見当識障害、理解力障害などを生じ、仕事や日常生活に支障をきたすことが多い。認知症には、アルツハイマー型認知症、脳血管性認知症などがあり、多くの原因となる病気が存在している。その前駆症状はこの本の中で紹介する「もの忘れ」に始まることが多い。

 外出する時、たびたび財布を忘れる。

 財布を取りに戻ったのに、何を取りに来たかを忘れてしまう。

 このような例が、認知症の初期症状として紹介されることがある。

 たしかに、財布を取りに戻ったのに肝心の財布を忘れてしまうことは、あり得ないことのように思うかもしれない。しかし、家に戻った時、玄関にある傘に注意が向いてしまったとしよう。そして、「そういえば曇っているので、午後から雨が降るかもしれない」と思い、「傘を持って出かけよう」と別のことに気持ちがそれで、財布のことをすっかり忘れてしまうことだって十分あり得る。もの忘れは、高齢者でなくても、誰でも経験するものである。仕事が忙しい時には仕事のことばかりを考えて、うっかりこのようなミスが起こりがちだろう。

 著者が高齢者に、もの忘れに関するアンケートを実施した時に、その比較対象として大学生にも同じように回答してもらった。すると、大学生でも財布を忘れる例だけでなく、ガスの消し忘れなどさまざまな「もの忘れ」の経験があることがわかった。そしてその頻度は、高齢者に劣らない程であったのだ。このように、もの忘れは、高齢者に多くみられる特徴というわけではなく、誰もが経験することなのである。つまり、「もの忘れ」が、そのまま認知症の兆しとはかぎらない。

 もの忘れは、行動をする間に、その目標を忘れてしまうことに起因していると考えられる。財布を取りに帰ることが目標だから、途中で見た傘に注意がそれないようにする、つまり「妨害」されることされることなく、財布のことをしっかりと憶えておかなければならない。しかし、一度書いたら消えないメモとは違い、こころの中のメモは消えやすく、またどこかにまぎれやすいものである。

 このような、これからの行動に必要な内容を、一時的にこころの中にとどめておく記憶はワーキングメモリ(working memory)と呼ばれている。ワーキングメモリは、「財布を持ってくる」という目標行動を可能にするために、「財布」に注意を向けこころの中にとめおく、いわば「こころの黒板」である。

 私たちが普段経験する「もの忘れ」は、「ワーキングメモリ」がうまくはたらかないために起こることが多い。ワーキングメモリは私たちの日常生活の中でとても重要な役割を果たしている。というのは、私たちの日常場面は、歴史の年代を憶えたり、英語のつづりを憶えたりというように、憶えることに集中するのではなく、行動しながら記憶しなければならない場合がほとんどだからである。

「財布」を取りに家に戻りながらも、友人との約束があれば、その時間に間に合うかどうか、どうやって行けばいいのか、実に様々なことを考えているのである。途中で、知り合いとばったり会い、短い会話を交わすこともあるだろう。しかし、「財布」のことは忘れてはならない。ところがここでワーキングメモリがうまくはたらかないと、途中で会った知り合いに注意がそれて、「財布」の情報がどこかに紛れてしまい、財布を取るのをうっかり忘れてしまうのだ。「財布」のことを憶えられなかったから、もの忘れが起きたわけではない。

 このようにもの忘れは、記憶が全般的に低下することが原因とは限らない。記憶することはできても、もの忘れは起こり得るのである。多くの内容をより長く記憶できることが、重要なのではない。

 従来から、認知症の記憶障害の原因としては、短期記憶の障害が想定されてきたが、最近の研究から、記憶と行動を並列しておこなうことを可能とするワーキングメモリの障害が、その原因であることがわかってきた。

 本書では、私たちの日常生活を支える記憶であるワーキングメモリからもの忘れについて考えてみたい。

 第1章から第3章までは、もの忘れとワーキングメモリがどのようなものであるか、また両者の関係について紹介する。第4章では記憶を支える脳の仕組みを紹介しよう。第5章では、ワーキングメモリの機能が衰える高齢者の特徴、反対に第6章では、発達段階にある幼児の特徴をみていく。日常の生活をスムーズに送るためにはワーキングメモリのどのようなはたらきが重要なのかを探ってみたい。そして、最後の第7章と第8章では、ワーキングメモリを健全に維持するためのヒントとなる研究を紹介したい。

 私たちが毎日の生活をなめらかに営むには、ワーキングメモリのはたらきが必須だ。ワーキングメモリをうまく使うことができれば、きっともの忘れの少ない毎日を過ごすことができるだろう。本書がもの忘れに関心を寄せるみなさんに役立てば幸いである。
 

著者  苧阪満里子(おさか・まりこ) 
一九七九年京都大学大学院教育学研究科博士課程教育心理学専攻修了。教育学博士。一九八五年大阪外国語大学外国語学部助教授、二〇〇一年教授、二〇〇七年より大阪大学大学院人間科学研究科教授。大阪大学脳情報通信融合研究センター教授(兼任)。日本学術会議第一部会員、日本ワーキングメモリ学会理事。専門は認知神経心理学。著書に『脳のメモ帳 ワーキングメモリ』(新曜社)がある。
もの忘れの脳科学
最新の認知心理学が解き明かす
記憶のふしぎ

苧阪満里子=著

発行年月日:2014/7/20
ページ数:192
シリーズ通巻番号:B1874

定価:本体 800円(税別)
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(前書きおよび著者情報は初版刊行時点のものです)