縄文時代の東日本は世界最高の大混雑地帯だった!
~過去の気候と環境がまるわかり~
縄文時代中期、東日本の人口が100km2あたり300人に増加 ※人口推定は小山修三(1984)による
東京大学大気海洋研究所教授
川幡穂高先生

1955年生まれ。東京大学理学部化学科卒業。東京大学大学院博士課程、地質学専攻を修了し、理学博士号を取得。さまざまな組織を経て、2005年から東京大学大気海洋研究所教授。古環境、古気候などの専門家

日本最大級の縄文集落跡・三内丸山遺跡、衰退の理由とは?

松尾貴史(以下、松尾) 川幡穂高先生は古環境や古気候がご専門ということですが、大まかにいうと、かつての地球環境を研究しているということでしょうか?

川幡穂高(以下、川幡) そうです。私どもは、地球の歴史を研究しています。なかでも、調べているのは昔の環境や気候。具体的には、海底の堆積物を化学的に分析して、昔、その地域がどのような環境、気候であったかを調査しています。

松尾 そうですか。そんな川幡先生は、青森県にある三内丸山遺跡の歴史を解明されたとうかがいました。まずは、岡村さんにこの遺跡について簡単に説明してもらいましょう。

岡村仁美アナウンサー(以下、岡村) はい。青森県青森市にある三内丸山遺跡は、今からおよそ5900~4200年前の縄文時代に築かれた大きな集落跡で、それまでの縄文時代に対する見方を一変させました。現在も、当時の食生活や技術、村の様子などの解明が進められています。

松尾 なるほど。そもそも、先生はなぜ、この三内丸山遺跡を調査なさったのですか?

川幡 その話をするためにも、まずは縄文時代の人口についてお話しさせてください。縄文時代初期、日本の人口は2万人程度でした。それが、今からおよそ5000年前、三内丸山遺跡ができた頃には一気に増えて、最大で約26万人にもなっていたと考えられています。これらは、全国の遺跡の数や集落跡の様子から推定した数字です。

松尾岡村 へえ~。

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川幡 その後、今からおよそ3000年前に弥生時代がはじまりますが、人口はその直前で8万人ぐらいにまで減っているようなのです。このように、日本の人口は、実は何度も増減を繰り返してきました。

松尾 それは意外です。現代まで日本の人口はひたすらに増え続けてきて、最近になって少子化になり、はじめて人口減少に転じたのかと思いこんでいましたが、違ったのですね・・・。

川幡 ええ、三内丸山遺跡の場合は、約5900年ぐらい前に人が住み出して、4200年前頃に突然、人がいなくなったと推定されています。そして、この変動は、日本のほかの遺跡の人口変動とも一致しているんです。人口の増減が、全国規模で一致しているのはなぜか、私はこれを不思議に思いました。そして、その理由は、ひょっとしたら環境が要因ではないか・・・と思ったのが、私の研究の出発点です。

松尾 なるほど! 戦争や飢饉が原因で人口が減ったのだとすると、全国でバラつきが出るはずなのに、地域にかかわらず同タイミングで人口が減っているということは、環境そのものが一斉に変わったからではないかと?

川幡 そのとおりです。当時、縄文人は基本的には東日本に住んでいました。西日本にはあまり人が住んでいなかったのです。東日本の人口密度を調べると、だいたい1㎢あたり1人でしょうか。

松尾 1人! ははは、それは寂しいですね(笑)!

川幡 ずいぶん少ないように思われるかもしれませんが、実は、縄文時代は狩猟の世界ですから、獣や魚、木の実を確保するためには、かなり広い面積が必要となるわけです。実は、当時の1㎢あたり1人という人口密度は、世界的に見ても世界最高の人口過密地帯と評価されているのです。

松尾岡村 へえーっ! そうなんですか。

松尾 先ほど先生は、縄文時代の人口の変化は環境によるものと推定したとおっしゃいましたが、そもそも当時の環境変化について、いったいどうやって調べるのですか?

川幡 三内丸山遺跡は陸地にあるので、多くの方は陸を調べればいいと思うかもしれませんが、陸は土砂などでできていて、雨や風などで削られているので調査にはあまり向きません。そのため、連続的に記録が残っている海の堆積物を使って、当時の環境を復元したのです。

松尾 では、陸ではなく海の底を調べたということですか?

川幡 ええ、そうです。三内丸山遺跡の前にある陸奥湾の岸から約20㎞のところで、海底から堆積物を採り、その成分を化学的に分析することによって、当時の気候を推定したのです。

4200年前、水温が2度下がった時期からクリの花粉も減っていることがわかる

松尾 すごいですね! やはり海の堆積物を調べるほうが、正確なデータが得られるということなんですね?

川幡 基本的に、海底には毎年少しずつ、着実に泥が溜まっていきます。泥といっても、陸から流れてきた植物や花粉、海に棲む植物性、動物性プランクトンなどがつくる物質です。陸奥湾には、過去約8000年分のそういった堆積物がきちんと溜まって、きれいに保たれているのです。ちなみに、沈殿物の厚さは8000年分でおよそ5mぐらいです。

松尾 8000年で5mということは、800年で50㎝、80年で5㎝! そうすると5000年前の約3m あたりの深さにある堆積物を調べたと。その結果はどうだったのですか?

川幡 はい。三内丸山遺跡が存在していたときの水温がわかりました。そこから、約5900年前に陸が暖かくなり、花粉のなかでもクリの花粉が非常に増えていたことを突き止めたのです。花粉の存在は温暖な気候を示します。その後、4200年前の海のプランクトンがつくり出す有機物を調べたところ、その頃になると水温が約2度下がったことがわかりました。また、花粉も見られなくなった。

松尾 つまり、寒くなった?

川幡 はい。クリは、耐冷性の高い植物といわれています。それにもかかわらずクリの花粉が見られないということは、気候が非常に寒くなったことを指します。私は、人口減少の決定的な理由は、寒さによる食料の減少だったのではないかと考えています。

松尾 へぇ~、戦争があったとか、違う場所が栄えてそちらへ移住したといった理由ではないんですね。

川幡 たとえば、弥生時代は村に防衛用の濠や柵がめぐらされたりしています。佐賀県の吉野ヶ里遺跡からは首のない人骨も出ており、弥生時代が激しい戦争の時代だったことを物語っていると思います。いっぽう、縄文時代の集落には砦や柵がないことから見ても、とても平和でのどかな社会であったと考えられるんですね。

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