第86回 パブロ・ピカソ(その一)パリで一人の詩人に運命を変えられた。天才芸術家の若き「修業時代」

パブロ・ピカソといえば、20世紀を代表する画家だ。
ごく若い頃の、アカデミックな傾向をはじめとして、キュビズムを打ち立てた、大巨人・・・・・・である。
とはいえ、ピカソも、初めからピカソだったわけではない。
修業時代は、つましい生活をおくりながら、研鑽し、精進を続けた末に画家としてのキャリアを築いたのである。
その才能の迸りが、奔流になるのには、多少の時間が必要だったが。

ピカソは、1881年10月25日、スペイン南部アンダルシア地方のマラガで生まれ、1895年、両親とともにバルセロナに移住した。
父は、工芸学校の美術教師だった。
バルセロナの目抜き通りであるランブラス通りは、当時、パリに次ぐほどの美しい表情を見せていた。
その一方で、バルセロナはまた、反逆とアナキズムの街であった。
治安維持を口実にして、公開処刑が相次ぐなか、スペインからの離脱を標榜するカタロニアは、爆弾テロを繰り返し、スペインの統治を寸断しようとしていたのである。
オペラハウス、王家の離宮、新聞社・・・・・・すべてが、手投弾の目標に成りえた。

祖国の混乱を眼前にし、暫くは芸術を味わえる事態ではないと考えたピカソは、パリ行きを決断した。1900年、世紀末であった。
そうなれば、ピカソの頭の中は、すでにパリジャンたちで一杯だった。
ピカソは、友達のカルロス・カサヘマスと二人で、黒いコーデュロイのスーツを作り、出発の日には駅で両親の見送りを受けた。
19歳の誕生日の数日前にパリに着いた。
フランス語は、全く話せず、棲家を転々と移していた。
モンパルナッスのカンパーニュ・プレミエール通り九番地に小さなアトリエを借りた。

パリで、はじめての展覧会を開いたが、大成功というわけにはいかなかった。
しかし、その展覧会に訪れた一人の詩人がピカソの運命を変えたのである。
詩人の名前は、マックス・ジャコブ。
彼は、ピカソの情熱と輝きにすっかり魅了されてしまった。

その3年前にマックスは、ブルターニュからパリにやってきた。売れない詩人や画家の吹き溜まりに住み、それなりの影響力を及ぼすようになっていた。何人かの芸術家を世にだして、既に認められた者たちにも協力を惜しまなかった。

マックスはピカソの世話人となり、崇拝者となった。自分が所有している、アルブレヒト・デューラーの貴重な木版画をピカソに献上し、さらにオノレ・ドーミエのリトグラフも、すべて譲ってしまった。

「僕がもっているよりも、君がもっていた方がいいんだ。そうだろ?」

ピカソに対して無条件に深い愛情を注ぎ続けた。

破廉恥きわまる盗賊すらその魅力に惹きつけられた

1902年、ピカソはバルセロナに戻った。20歳の青年が画家として成功するには、パリという街はあまりに巨大すぎたのだ。