雑誌
名門・ユニチカ「経営の失敗」——なぜ東レになれなかったのか
内幕レポート 倒産寸前に追い込まれて

誰もが知る名門企業もいつからか株価は「100円以下」が常態化。耐えきれなくなって、ついに金融機関に助けを求めた。輝かしいイメージを剥がすと、生々しい会社の内情が浮かび上がってきた。

「5年前と同じ風景」

地下3階、地上32階、高さ125m—。当時、関西で最も高いビルとして「大阪国際ビル」がオープンしたのは1973年2月のこと。約6000m2の広大な土地を利用してこの超高層ビルの建設を計画したのはユニチカである。

この年から、ユニチカは「ユニチカマスコットガール」を発表。初代には風吹ジュンが選ばれた。同じく同社が主催していた「スイムウェアキャンペーンモデル」は、後に内田有紀、本上まなみ、米倉涼子らを輩出。その眩しい肢体は世の男性を虜にした。

'72年にはミュンヘン五輪でバレーボール日本女子が銀メダルを獲得し、代表監督を務めた小島孝治氏が率いる実業団チーム『ユニチカ貝塚』にもスポットライトが当たっていた。ユニチカのための「記念イヤー」と言ってもいいほどに、その社名を日本全国、さまざまな場面で目に耳にする時代。最先端ビル、キャンギャル、花形スポーツと、きらびやかなイメージが会社を彩っていた。

そんなユニチカが今、大ピンチに陥っている。繊維業界のライバルである東レが快進撃を続け、経団連会長を出すまでになったのとは対照的な崖っぷち状況に追い込まれたのだ。

今年5月、ユニチカは三菱東京UFJ銀行など取引銀行に対して375億円におよぶ金融支援の要請をしたと発表。同時に「祖業」である繊維事業からの大幅な撤退を断行し、食品を包装するナイロンフィルム製品などを抱える主力の高分子事業に経営資源を集中させる、大規模な事業構造改革に踏み切ると明かした。

構造改革の結果、'15年3月期には370億円の最終赤字に転落する見込みであり、前身となる尼崎紡績が創立された1889年以来、最大の危機といえる。

大阪市内で会見に臨んだ安江健治社長は、「けじめをつける」と語り、引責辞任して取締役相談役に退くことを発表。社長に昇格する注連浩行取締役常務執行役員は、「思い切った改革が必要だ」と新たに策定した中期計画に取り組む姿勢をアピールしたが、関係者の視線は冷ややかだった。

あるマーケット関係者は、「既視感がある。5年前に見た風景と同じじゃないか」と言う。

実は'09年3月に、ユニチカは今回と似たような「構造改革」を発表している。

当時ユニチカは'06年度からスタートした3ヵ年計画「NP-8」に取り組んでいたが、これがまったく軌道に乗らず手こずっていた。そこで不採算事業から一気に撤退したうえ、希望退職などにも手を付ける膿出しを迫られたのだ。

当時、その構造改革計画を練ったのが専務だった安江氏。具体的には損失計上が続いていたナイロン長繊維事業からの撤退、ウール事業の不調で操業率が低下していた三重県の工場の閉鎖などを実施することで、一旦は6年ぶりの最終赤字に転落。同時に「改革'11」と銘打った3ヵ年計画を策定し、経営資源を食品包装用のナイロンフィルム事業などに集中させる事業改革を行うことで、V字回復するというシナリオを描いた。

当時社長だった大西音文氏が退き、安江氏が社長に昇格する人事も行われ、安江氏のもとでこの改革プランが進められたのだ。

「ところがこの改革がスタートした後も売上高は年々下がるばかりで、最終的に掲げていた計画は未達だった。安江氏はリーマン・ショック、東日本大震災、欧州債務危機などを言い訳として挙げ、それでも『大きな構造改革は終えた』と胸を張っていた。今回も同じことが繰り返されているだけじゃないのか」(前出・マーケット関係者)

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら