第85回 林芙美子(その三)淫蕩な女性の情痴的恋愛を描いた大作『浮雲』が高評価を受けて---

林芙美子は、いよいよ畢生の大作、『浮雲』の執筆をはじめた。
約八ヵ月、『風雪』に連載した後、場を『文學界』誌上に移し、昭和二十六年四月まで執筆して完成させた。

富岡という敗戦で厭世的になった農林技師と、ゆき子という仏印で知り合ったタイピストとの情痴的恋愛を描いたものだ。
ゆき子は、いままで芙美子が描いて来た女性の集大成である。情け深く、情熱的で淫蕩な、少々破廉恥な行為にもおじけない、といったタイプの女性だ。
一方、富岡は、ゆき子のような女は苦手なのだが、敗戦を自らの身体でうけ、挫折の荒廃を体現する存在になっている。

『浮雲』は、予想以上の評価で、読書界に認められた。
名匠、成瀬巳喜男により映画化され、高峰秀子をゆき子に配した『浮雲』は、数十年たったいまでも多くのファンを喜ばせている。
好む好まないはともかく、イレギュラーな人生を選ばざるを得なかった女性の、だからこその心延えを、高峰秀子は、わざと容貌を歪ませ、不貞腐れた態度で熱演している。

林芙美子には、数々のエピソードがあり、虚実を糺すのは難しい、と云うよりは、野暮な振る舞いに見えてしまう。
それでも、芙美子にたいする研究、考証の類は、いよいよ増えている。
それには、やはり、それだけの魅力があるのだ、と云わざるを得ない。
ある統計によると、卒論でのトップテーマはかつては男では三島由紀夫だったが、いまでは村上春樹になったという。女性は、林芙美子と江國香織がトップを争っているそうな。

『火宅の人』の作家、檀一雄は、『小説 林芙美子』なる短編小説を書いている。

「昭和八年であったか、九年であったか、思いおこせない。
記憶違いでなかったならば、林さんはその時、ロシヤ人が着るような、部厚いシューバーを身につけていた。
雪ダルマのように着ぶくれた、その矮小の女の体が、寒い場末の夜の闇にころげ出していった。(中略)
短い、寸づまりの手。その手の甲に黒いソバカスの斑点が一ぱい散っているような指。
その指で、もどかしげに煙草の灰を散らし、最後にウイスキーを流しこんだ紅茶を両手でかかえるようにして啜りながら、時折じっと相客の私の方を、こもっている煙草の煙の中にすかし見る。(中略)
しかし、私は親愛の感情を持った。
これが、私の、林芙美子に対する、いつわらぬ、最初の印象である」