第84回 林芙美子(その二)『放浪記』が売れて多忙を極めながら、パリへ、樺太へ、飛びまわった---

『放浪記』は、昭和五年にベストセラーになった。
当時から、しつこく繰り返される貧窮についてのディテールは、一部の評者の顰蹙を買っていたが、芙美子は一切、顧慮しなかった。
彼女は、ついに栄冠を戴いたのだから。
昭和五年には、台湾総督府の招きに応じて、望月百合子、生田花世と一緒に台湾訪問旅行に赴いた。

名士の仲間入り、というところだろうか。
翌年の六年は、小説は売れたし、内外からの招待もあり、いよいよ多忙を極めた。
いつの間にか、旅行好きになっていた。最早、芙美子にとっての放浪の季節は去ったのである。
故郷、尾道に錦を飾った。
夜は歓迎会、翌日は講演という「名士」になった自分の立場を改めて実感した。

昭和六年十一月早朝。
芙美子は一人でパリの北駅についた。
リヨン駅から出発まで、界隈の安ホテルを転々としていた。
モンパルナッスは、盛っていた。

墓地を控えた繁華な盛り場に、芙美子は魅了された。父親が餞別として贈ってくれた塗下駄をはいて、石畳みの街を歩きまわった。
当時、フランス文学者の渡辺一夫が、ソルボンヌに留学していた。
渡辺は、友人に誘われてくたびれている芙美子の見舞いに訪れた。

「パリに来て寝込んでいるのなら、死んでしまいなさい」

そう、渡辺は云ったそうな。
その言葉で、芙美子は元気になったということになっているが、いささか出来すぎかもしれない。

昭和九年の初夏、芙美子は樺太を訪れた。
樺太の中心である豊原を見て、芙美子は愕然とした。

「どのように樺太の山野を話していいか、まるで樹の切株だらけで、墓地の中へレールを敷いたようなものです(中略)その墓場のような切株の間から、若い白樺の木がひょうひょう立っているのを見ます。名刺一枚で広大な土地を貰って、切りたいだけの樹木を切りたおして売ってしまった不在地主が、何拾年となく、樺太の山野を墓場にしておくのではないでしょうか」

『樺太への旅』は、改造社の『文藝』に掲載されたが、当局からは、伏字の処置は一切なかったという。