第83回 林芙美子(その一)放埒に生きぬいた女流文学者---教師の尽力で文才は見出された

わが国は、平安京の時代以来、すぐれた女流文学者を輩出してきた。
紫式部、清少納言から、樋口一葉、佐多稲子までその厚さとバラエティは、絢爛豪華と云う他ないだろう。
そのなかでも、戦前戦後に異色を放った林芙美子は、独立独歩の人生を貫き、世間の好奇心と嫉みを端から勘定に入れず、放埒に生きぬいた。
その生き方は、独自のものとしか、云うほかはない。
辛辣と放埒を混淆させた、その面目は、やはり「女傑」といった仇名すら辟易させてしまうのだろう。
今時の、威勢のいい女などとは比べられない、傑物である。
とはいえ、まあ、男の方も、だらしないと云えば、だらしないのだけれど。

林芙美子は、明治三十六年十二月三十一日、ブリキ職人槙野敬吉方の二階で生まれた。

父は行商人の宮田麻太郎。
母キクは、鹿児島の東桜島で温泉を経営していた林新左衛門の長女であった。

芙美子が七歳の時、両親は離婚し、芙美子は母と共に家を出た。
麻太郎は、九州若松で呉服の太物を商い、羽振りがよかったが、芸者を家に入れており、母キクは、芙美子を連れて出奔せざるを得ない境遇に追い込まれてしまっていた。

キクは、若松でなんとか糊口をしのいでいた、沢井喜三郎と結婚した。
沢井は、かつて宮田の店で番頭として働いていた人間で、キクより二十歳も年下だった。
兄と云う方がふさわしい「義父」であった。
一家は、九州各地を行商して廻った。
芙美子は、長崎市の勝山小学校に入学した。
その後、一家は間もなく、他の土地に移り、以降、各地を転々とし、小学校は尾道市第二小学校に落ち着くまで、十数度変わったという。
その間に、佐世保、佐賀、鹿児島、熊本、若松、久留米、直方、折尾、門司、下関と九州の西海岸を、雑貨や唐物を売り歩いた。

一家が泊まるのは、いつも木賃宿だった。
芙美子は、商売が上手くいかないという理由で、キクの実家の元に預けられた。
幼い芙美子は、祖母の命により炊事をさせられた。
祖母は、孫をかわいがるような人ではなかったのである。

ようやく、大正五年、尾道に一家は落ち着いた。
その年、芙美子は尾道市の市立第二小学校の第五学年に転入している。義務教育の教育年限よりも、二歳遅れていたのだ。

カフェーの女給をしながら詩を作り童話を書いた

そうして、芙美子は転機を迎えた。
芙美子が書いた自由作文が、抜群に上手い事に気づいた教師たちの尽力で、卒業する事が出来たのである。
自分の文才は、世間を渡る武器になるのではないか・・・・・・。
はじめて、自らの才能に、気づいたのだ。