小熊英二【第2回】「思考は体験によって決定されるのではなく、過去を再構成することで組み立てられる」
探究し、社会に適合させる「学者」という仕事

⇒【第1回】はこちらからご覧ください。

どこに無理をかけているのかを自覚する

慎: 人によっては、学者と呼ばれるような人であっても、自分の結論がまず最初にありきで、それを正当化するための資料だけを集めてしまいがちになるというような、心の落とし穴があると思うんです。小熊先生はまずそういったものに陥らないように見えるのですが、それはこういった落とし穴を避けようと普段から意識されているからなのか、それが自分にとって心地良い状態だからなのか、どちらなのでしょうか。

小熊: 両方でしょう。さっき言ったように、私は人間が完全無欠だとは全然思っていない。人間が書くものや理論なんて、所詮は球体を紙で覆うようなものだと思っているんです。どこか一部は覆えたような気がしていても、絶対どこかに皺が寄っているだろう。そういうふうに考えてしまうほうです。

だから、いろいろな人物の著作などを読んでみると、ある側面から見たら完全に覆っているように見えても、裏に回ってみると皺だらけということがよくある。しかし逆に言うと、そういう無理のかかっている部分が、その人の思想のいちばんのキーポイント、「アルキメデスの足場」みたいなものだから、それを探り出すと面白い研究になったりします。

でもそれは、別に個人の思想だけの話ではない。たとえば数学のユークリッド幾何学というのは、公理があるわけですよ。「平行する二直線は交わらない」とかね。それを前提に、足場にして体系が組み立ててある。それを疑ったらユークリッド幾何学そのものが成り立たないわけですね。

ほかにも、人間は功利を追求するものだとか、国家は国益を追求するものだとか、そういうことを公理にして作ってある学問体系もある。でも本当は、それは仮定であって現実世界を完全に覆えないだろう、せいぜい近似値しか導けないだろう、というところがあるわけです。その根源的な部分を問うところから、別の発展があるわけですよ。

たとえば私が『単一民族神話の起源』という本でやったのは、「日本民族は南方から来ました」とか「異民族との抗争はありませんでした」とかいう前提に立つと、どういう体系思想が組み立てられるのか、という事例研究です。そしてたいていの場合は、前提から論理を組み立てて結論が導かれているのではなくて、結論から前提を作ってあることが多かった。これは西洋政治思想の「自然状態」の設定が、個々の思想家で違うのと基本的には同じです。

そういう事例をたくさん研究しましたから、自分が何か論理を展開するときに、どういう公理を設定しているのか、どこに無理をかけているのかは、自覚的でありたいと思っています。これまでに自分が書いた本に関しては、「ここに公理を設定した」とか「ここは書かないでおいた」とか、そういうのは全部自覚しています。ただ、そういう無理があるのは人間が神でない限り当然のことで、自分の書いたことで世界の全部が覆えなかったとしても、落ち込んだり動揺したりということはないですね。できるだけ覆うように努力はするし、どこに無理があるのかを自覚しようと努力はしますけれども。

慎さんがおっしゃったような、主張したい結論みたいなものがあって、その結論に沿ってエビデンスと称するものを集めてくるという人は、私が思うには辛いんじゃないですか。何か政治的な意図があって、「自分はある究極の政治的目的のための、ただの道具なんだ」と思えていればまだ楽かもしれない。ですが、「自分の理論ですべて説明したい」とか「世界の支配者になりたい」と思って、それを立証するために結論が先にあるんだったら、それはすごく辛いと思う。だって、絶対に不可能だから。私はそんなのはやりたくないし、やっていて面白いとは思えない。

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