小熊英二【第1回】「人間は不完全な存在だから、人間の考える理論で世界を覆うことは無理だと思う」
探究し、社会に適合させる「学者」という仕事
慎泰俊氏と小熊英二氏

慎: 小熊先生の本は10年以上前から読んでいて、いつか是非お話をうかがえたらと思っていました。「アジア・イノベーション・フォーラム2013」のときに機会をいただいて今日お会いすることができました。

最初は『単一民族神話の起源――〈日本人〉の自画像の系譜』という本を読んで、学生の頃に『〈民主〉と〈愛国〉――戦後日本のナショナリズムと公共性』を読ませていただきました。今日はいろいろと本のことなども併せてお伺いしたいのですが、まず小熊先生は自分のお仕事は何だと思われていますか?

小熊: 一番目は研究をすることで、二番目は教育でしょう。三番目はちょっと二番目と区別がつけ難いところですが、文章を書いたり、あるいは教育外のところで喋ったりすることですね。これは、何らかの形で社会に参加するというか還元するというか、そういう仕事です。

書くことで、探究したことを社会にアダプトする

慎: 研究とものを書くことというのは、どのくらい一致していないものなのでしょうか? 私は学者さんの研究というのは、書くこととほぼ直結しているものだと思っていたのですが……。

小熊: 研究というのは、自分にとってはある種の修行のような部分を持っていますね。自分を含む社会のいちばん大切な究極のものを、探り出すということです。それをちゃんと握っていれば、自分がぶれたり動揺したりすることはないという意味で、大切なことです。またそういうことを日々続けることで、自分の日常生活を律するということでもありますね。

私は割と規則正しい生活をする人なので、朝は大体7時に起きて、それから家の掃除をしたりしたあと、大体8時半とか9時には仕事を始めています。何か書いたり、読んだり、調べたりという仕事ですね。そういうふうに日常生活を律しながら、究極のものを探っていけるのが、いちばん自分にとっていい状態です。

書く仕事も研究の一環としてやっているわけですが、探求することと、書いて社会にむけて発表することは、少し別のことなんです。というのは、まずわかってもらうように発表しなければなければならない。それから、人を傷つけたり、社会に害をなすような発表の仕方は、できるだけ避けなくてはならない。研究しているときには、良く言えば自由に、悪く言えば無責任に探求しているわけですが、探求したことを何でもそのまま出せばいいという考え方は、私はとりません。

また私は、出版社に10年ほど籍を置いていた時期があり、そのうち2年間は大学院に行くために休職しましたが、それ以外の8年間働いていた。その間に営業をやったりもしました。だから、どういうふうに書いたら、どういうふうに流通して、どう社会に受け入れられていくか、というのがある見当がつくんです。そういう経験や知識、勘などを使いながら、社会に発信した場合の効果を考えて書きます。だから書くことは、探求したことを、どうアダプトしていくかという作業だと思います。

書く作業のなかでも、長い本を書くときは、わりと自由に書きます。まず探求したことをかなり自由に書いて、あとからそれを編集しながら、できるだけ社会にアダプトするにはどうしたらいいかを考えます。多少は誤解されやすいことを書いても、丁寧に説明もできますしね。

一方で、たとえば新聞などに書く短い文章のような場合は、やることを限定します。最初からこのスペースで言えることはここまでだ、だからそれに限定して、いちばん効果的に書こう、というようなことを考えて書きます。だからそれは、研究とは別のことになってきます。

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