それでも海と生き抜くこと

頬を刺すような冷え切った風が吹きすさんでいた2011年3月、陸前高田市。累々と積み重なる一面の瓦礫を目の前に、ただただ立ち尽くした。へし折られた鉄塔、原型を留めない車屋や家屋を呆然と眺めながら、自然の猛威に圧倒されるほかなかった。「さぞかし人は、海を恨むだろう」。瞬間的にそう感じたのを今でも覚えている。これだけ街を破壊しつくし、人の命を奪っていった海に臨むこの地の人々は、これからどんな生き方を選んでいくのだろう。

それから3年以上が過ぎた今。それでも浜人は一人、また一人と海へ戻ってきていた。時には照りつける太陽の下で、そしてまた凍てつくような寒空の下で、黙々と作業をこなしていく彼らの様子が不思議でならなかった。なぜ彼らは、もう一度海へと向かっていくのだろう。

沖合いで作業をする菅野さん。ウミネコたちがおこぼれを狙いにやってくる。

海から離れ、海へ戻る

広田半島の先端に位置する漁師町、根岬。満点の星空の下、海へ海へと向かうこと約2時間。水平線がじわりと明るくなりだすのと同時に、漁船・第二志田丸の周りをウミネコたちのざわめきが取り囲み始めた。魚群探知機は水深200メートルを指している。ガクンとエンジン音が変わると同時に錨が降ろされ、船主・菅野修一さんが黙々と海底から籠を引き上げ始めた。大ぶりのタコやつぶ貝、毛ガニたちが次々と船の水槽を埋めていく。

61歳のベテラン漁師である菅野さん。あの3月11日、いつものように港で作業をしている最中だった。立っていられないほどの揺れが収まった後、家族の安否を確認するとすぐに船を沖に出した。津波が来る恐れがある際、漁師たちの中には船を守るため、波に飲まれる前に沖出しする者も少なくないのだ。後ろを振り返ってみると、港近くの椿島が波に飲まれるのが見えた。「島の高さといえばちょうど自宅がある高さと同じくらいじゃないか」。家族には自宅にいれば大丈夫だと伝えてしまった直後だ。果たして無事でいてくれるのか。その間にも無線でやりとりしていた仲間たちが次々波に飲まれていくのが分かった。それでも引き返すことも助けに行くこともできない。4、5キロは船を走らせただろうか。

やがて日が暮れ、辺りが暗闇に包まれると、引き波で流されてきた家々や瓦礫が船を囲み始めた。「もしかしたら生きてるやつがいるんじゃないか」。一つ一つ灯りで照らしてみるも、そこに人の息を見つけることはできなかったという。

一方高台に避難していた家族たちは、車中で震えながら一夜を過ごしていた。水平線に目をやると、僅かに船の灯りがゆらめいていた。ただただ信じるしかなかった。「あれがきっと、父さんの船に違いない」。

2日近くを海の上で過ごした後、菅野さんはなんとか瓦礫をかき分け、港へとたどり着いた。「今日来なかったらもう帰ってこないだろう」。家族がそう覚悟し始めた矢先のことだったという。

幼い頃から海と共に生きてきた菅野さんでさえ、震災直後はそこに向かい合うことが出来なかったという。あれほど仲間たちや街の営みを奪っていった海。もうその海と共に暮らすのはやめよう、と。ある日、菅野さんが一家で物資の缶詰を食べていたときのことだ。ふと、孫たちがこうつぶやいた。「じいちゃん。じいちゃんが捕ってきた白いお魚がもう一回食べたい」。その一言が菅野さんの背中をもう一度、海へと押したのだった。漁師仕事と並行して営んでいた民宿も、ボランティアたちが寝泊まりできる貴重な拠点となっていった。「もう一度、立ち上がってみよう」。少しずつ決意が固まっていった。

よく晴れた日、末っ子の修生(しゅうせい)君がいつも海へと誘ってくれる。
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