第81回 ココ・シャネル(その三)70歳を過ぎてなお店を構えて再挑戦。喝采とともに受け入れられた
ココ・シャネル、70歳のころの写真---〔PHOTO〕gettyimages

第二次世界大戦が勃発すると、すぐにシャネルは、香水部門とアクセサリー部門を除いて店を閉じた。
こういう時期に、オートクチュールを扱うべきではない、と考えたのだろうか。

次なるシャネルの恋人も、ドイツ人将校であった。
その名は、ハンス・フォン・ディンクラージ。ディンクラージは、一八九六年、ハノーバーの古い貴族の跡取りとして生まれた。
シャネルより十三も年下である。
母親がイギリス人だったので、英語にも仏語にも通じていたという。

一九三三年から一年間、ゲッベルスの指示により、パリのドイツ大使館で報道担当として働いていた。
その後、開戦と同時にパリを退去したが、ドイツ軍の勝利によって、再びパリにやってきたのである。

ディンクラージは、独仏の社交界では、スパッツ(すずめ)と呼ばれていた。
よく通る喉と、敏捷な動きをもっている、という意味だろうか。
小説家のミッシェル・デオンは、ディンクラージについてかく語っている。

「長身の、何とも云えない美男子だった。多分、スパイだったと思う。けれどスパイよりは、ジゴロとしての才能があったと思う」

「私は小さい頃から、おしゃれには関心があった。少女時代は、よく五人の兄姉妹にからかわれたものだ。みんなは映画界に憧れていたので、モードを見下していたからだ。だけどそれにしても・・・・・・布地の感触、色彩の戯れ、思いがけない混り合い、といったものが、私は大好きだった。クチュールやデフィレに関する雑誌記事もスクラップしていたし、それと・・・・・・シャネルについても。彼女のスタイルには心を奪われていたが、パリ解放を迎えてからは、〝マドモアゼル〟はスイスへ逃れ、一九三九年からは一切の活動を止めてしまっていて、当時はもう過去の人になっていた。それというのも、彼女はドイツ士官との恋愛事件を引き起こし・・・・・・」(『カンボン通りのシャネル』リルー・マルカン著、村上香住子訳)

そしてアシスタントだったリルーは、今一度、全盛期を引き寄せるという、シャネルのとてつもない挑戦を目撃することになった。
なにしろ、かつてシャネルの代名詞だったカンボン通りに再び店を構えようというのだから。

店の再開が、成功すると思っている関係者はほとんどいなかった。
七十一歳から、もう一度、挑戦しようというのだ。
リルーは、感動した。
こんな歳になって、まだ戦い続けるなんて。
シャネルのコレクションは、パリではかなり野次られた。
とはいえ、シャネルと深い関わりのある女性―エリザベス・テーラーや、ローレン・バコール、グレース・ケリー―たちは、シャネルを見捨てはしなかった。

結局、コレクションは喝采をもって受け入れられ、シャネルは勝利したのである。