第79回 ココ・シャネル(その一)孤児院で育ちお針子となった―カリスマデザイナーは「虚栄の限界」を悟る

「六歳で早くもわたしはひとりぼっちだった。母は死んだばかり。父は、まるで厄介な荷物みたいにわたしを叔母たちのところへあずけると、さっさとアメリカに渡り、それっきり帰ってこなかった。/孤児・・・・・・それ以来、この言葉を耳にすると、いつも恐怖で胸がしめつけられる思いがする。今でも、女の子たちのいる孤児院を通りかかって、『あの娘たち、孤児なのよ』という言葉を聞いたりすると、思わず涙がこみあげてくる。あれから半世紀たった。だけど、この世の中でいちばんの贅沢と楽しみにあふれたこのホテルにいても、わたしはひとり、なおもひとりぼっち。/これほどひとりぼっちだったこともない」(『シャネル―人生を語る』ポール・モラン著、山田登世子訳)

ココ・シャネルという女性の面白さは、社交界を牛耳り続けるイコンであるにもかかわらず、その虚栄の限界を厳しく意識していたことだろう。

お針子時代から、グランメゾンのオーナーに成り上がった後でも、シャネルは、自らの実力、器量を慎重に測っていた。

浮かれ女の巷を闊歩しながら、胸に抱えた見えない算盤を正確に弾き続けた、渋く、つれない、すれっからし。

彼女は、お針子時代の生活を忘れなかったし、それが故に追従や世辞に害されることもなかった。ルーレットの赤と黒の交錯を、退屈しながら、眺めつづけてきた玄人。

ガブリエル・ボンヌール・シャネルは、一八八三年八月十九日、パリから南西、三百キロのロワール川流域の小さな街、ソーミュールに生まれた。

母のジャンヌは、出産の直前まで働き通しで、すっかり弱っていたという。
名づけ親が立ち会う事もなく、赤ん坊はガブリエルと、命名された。
以降、母親がなくなるまでの六年間、シャネルはこの町で暮らした。

「わたしは意地が悪くて、怒りっぽくて、盗みもしたし、嘘つきで、戸口で立ち聞もした。盗んだものを食べるのは、何よりおいしかった」(同上)

一九〇五年の夏、ムーランでお針子として働いていたシャネルは一稼ぎをする積もりで、ヴィシーを訪れた。
ヴィシーは、肝臓病に効くとされる鉱泉が湧く保養地として、広く知られていた。
ヴィシーの名前は、ナチスドイツの傀儡として樹立された臨時政権を示す事になったのだけれど、それはまた、後の話である。

その頃、シャネルは成功の糸口を見つけだした。
エティエンヌ・バルサンと深い関係になったのである。
バルサンは、富裕な一家の―しかし貴族ではない―一員で、フランス中部の工業都市シャトールーに屋敷を構え、堅実な商売をしていた。

仰々しいデザインなど帽子にはいらない

そうした出自の若者が、一体、どうしてココ・シャネルに関わる事になったのか。
バルサンは徴兵されて、地元のシャトールーの歩兵連隊に編入させられた。
競走馬の飼育にしか興味がなかったバルサンにとって、歩兵部隊の新兵訓練は地獄だった。