第78回正力松太郎(その四)「日本テレビ」開局。普及のためと盛り場や街頭に高価なテレビを並べた

昭和二十年八月十五日正午。
天皇は、ラジオを通じてポツダム宣言の受諾、戦争終結の詔書を放送した。
九月二日には、アメリカの戦艦ミズーリ号で重光葵および梅津美治郎両全権により降伏文書の調印が行われた。

十二月二日朝。
GHQは、戦争犯罪人の指定を行った。
梨本宮守正王を筆頭に、平沼騏一郎、広田弘毅ら重臣、元蔵相の池田成彬、元内務大臣の後藤文夫、そして正力松太郎も、戦犯として逮捕された。
東條英機元首相は、米軍の到来を目前にして、すでに自決を図っていたが、心臓を撃ち損ねたため、命に別状はなかった。

正力は、巣鴨プリズンに収監された。
わずか三畳の部屋で、三十五年ぶりに座禅を組んだ。
一日、五時間、坐ったという。
それでも、正力のカムバックには、時間がかかった。

読売の社屋は出入り禁止にされていた。
怏々とする日々が続く中、日産コンツェルンを築いた鮎川義介が訪ねてきた。

「今、アメリカでは、テレビジョンが流行っている。この仕事は、君にしかできない」

実のところ、正力もテレビについては、深甚な興味を抱いていたのである。
プリズンでの「仲間」だった池田成彬に、吉田茂総理からの書簡が届いた。

「マッカーサー元帥は、正力氏がテレビジョンを経営することについては差しつかえないが、テレビジョンは非常に高価で、贅沢品であるから、ドルを使用してはならないと云っている」という厳しい内容だった。

正力の計画は、頓挫したかに見えた。
ところが、かつて読売の社員だった柴田秀利が、正力を訪ねてきた。

「カール・ムントというアメリカの上院議員がいるのですが、彼の言葉によれば共産主義者は、飢餓と恐怖と無知という武器をもっている、というのです。共産主義に対して、もっとも有効な武器がテレビジョンだというのです」

正力は、膝を叩いた。

「けれども、日本のテレビネットワークが、アメリカによって建設され、運営されるのは、大いに問題がある。テレビによって日本人が洗脳されるような事があってはならない」

必要な資金は、十億円という莫大なものだった。
池田勇人蔵相の肝いりで、三田綱町の蔵相官邸で、テレビに関する懇談会が設けられ、財界、政界からの全面的支持をとりつけた。

かくして、有楽町の読売新聞社別館に「日本テレビ放送網株式会社創立事務所」の看板が掲げられたのである。

正力の構想に、もっとも大きな衝撃を受けたのは、NHKだった。
テレビを手がけるのであれば、当然、公共放送たるNHKがネットワークを与るだろう・・・・・・。
そういった目論見が完全に瓦解したのである。

原子力委員長に就任して、発電事業にも全力を尽くす

昭和二十八年八月二十八日。
日本テレビの開局披露式が行われた。
吉田茂首相を筆頭とする朝野の名士が、テレビ放送の開始を祝った。
とはいえ、テレビの普及率は、けして高くはなかった。
電化製品のなかでも、飛び抜けて高価だったのである。