東京に憧れない「マイルドヤンキー」が示す「中央と辺境」という構造の喪失
『現代ビジネスブレイブ イノベーションマガジン』---佐々木俊尚「メガチェンジの時代」より
シドニーの美術館で開かれたサイケデリックアートの展覧会---〔PHOTO〕gettyimages

「メイン」と「サブ」の区別がなくなった

第32回でも指摘したが、文化において、「メイン」と「サブ」という区分けがもはや消滅してしまっている。

そもそもメインストリームの文化という概念が、そもそも存在しなくなってきている。以前だったら、たとえば音楽ではクラシックがメインでロックやポップスがサブカルチャー、文学だったら純文学や古典がメインで、大衆文学がサブというような区分けがあった。しかしこうやって書いてみてもわかるとおり、もはやそんな区分けは何の意味もない。

仮にクラシック音楽の愛好家だとしても、「メインの人」とは思われない。クラシック音楽を聞いているからといって教養のある人だとは思われなくなり、「単なるクラシックのオタク」扱いになってしまっている。まあ、こういうメインの衰退こそが「佐村河内」事件の背景になっているということもあるだろう。憧れる対象としてのメインカルチャーがなくなったからこそ、難解なメインを人々に受け入れてもらうために、安易な情動の物語に頼ってしまうということが起きているわけだ。

振り返れば、日本におけるメインストリームには、欧米への憧れという底流があった。欧米のクラシック音楽やファインアートがメインストリームであったし、さらにいえばサブカルチャーにおいても、「サブの中のメイン」は欧米だった。

たとえばロックの世界では、やはりイギリスやアメリカのロックが圧倒的にカッコ良く、70年代ぐらいにさかのぼると「日本語はロックに乗らなくてカッコ悪いなあ」などと文句を言っていたことを思い出す。日本の文化シーンでは「サブとメイン」「欧米と日本」という二重構造が入れ子のようになっていたといえる。

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