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有名人がいまだから明かす「私が許せなかった人へ」【第3回】西本聖(オリックスコーチ)から江川卓へ「エースは俺だ!」と見下された日々

伊集院静『許す力』に学ぶ 

西本聖(オリックスコーチ)から江川卓へ
「エースは俺だ!」と見下された日々

ベストセラー『大人の流儀』シリーズの第4弾『許す力』。発売3週間で早くも17万部に

江川卓という存在は、私の人生を語る上で欠かすことができません。彼は私にとって、許せない、許すわけにいかない人でした。

「空白の1日」として球史に語り継がれているあの一件。非難されるべきは江川さん本人ではなく、ルールの隙を突いて彼を入団させた巨人の球団幹部でした。しかしあのとき、世間の批判の矛先は江川さん本人に向いた。江川卓は自己中心的な悪党だ、というのが世間の総意になっていた。

そしてその空気は、当時の巨人の選手たちの間にも蔓延していました。投手陣の大黒柱だった小林繁さんを追い出す形で入団する江川さんを、快く思っている選手なんていなかった。

そのなかでも、私の江川さんへの敵対心は誰よりも強かった。彼が入団した'79年、私は5年目。年は江川さんがひとつ上だった。ドラフト外で入団して以来、歯を食いしばって練習してきて、やっと先発ローテーションの地位を摑めそうなときでした。そこに、江川さんはいきなり「大エース」としてやってきた。絶対に負けるわけにはいかないと思いましたよ。

練習では江川さんよりも一球でも多く投げ、1mでも長く走った。そうすることで、'79年は何とかローテーションに残った。そして翌年には、投手陣の柱と呼んでもらえるような存在になれた。

そこから、江川さんも私を意識するようになった。'80年の秋季キャンプ、ブルペンで並んで投球練習をしたときのことです。私は彼より先に切り上げたくなかった。そして江川さんも、同じことを思っていた。それで2時間半、二人で投げっぱなし。ブルペン捕手が「いい加減にしてくれ」と音を上げるまで、300球以上投げ続けた。

その後は江川さんが引退する'87年まで、交互に開幕投手を務めた。おそらく、傍目には良いライバル関係にあると思われていたでしょうね。しかし私のなかでは、ナンバー2という意識をどうしても払拭できなかった。年間の勝ち星で、どうしても越えられなかったんです。「エースは俺だ」と江川さんに見下されているような感覚だった。

いつしか、「江川に勝つ」、それが私の毎年の目標になった。彼が登板しているときは、「打たれろ」「負けろ」と願いました。それだけに、彼が引退を表明したときは、本気で「許せない」と思った。「俺の目標はどうなるんだ」と、引退を報じるテレビの前で思わず叫んでいました。それ以降、私は江川さんのトータルの勝ち星を抜くことを目標にした。