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特別読み物 小橋建太 怖かった先生が涙を流した
あの先生に出会えてよかった ——私が今日、こうして生きているのは先生のおかげです

小橋建太 元プロレスラー
怖かった先生が涙を流した

僕には3人の父親がいます。一人は実の父親。一人は「プロレス界の父親」である師匠のジャイアント馬場さん。そしてもう一人が、「福知山の父親」—福知山高校柔道部監督だった高橋征夫先生です。

高橋先生との出会いは強烈でした。当時、先生は40歳くらいで、眼光が鋭く、いかにもコワモテな風貌。合格発表当日、受験番号を見つけて喜んでいる僕に、いきなり「おまえが合格するとは思わなかった」と声をかけてきました。先生は、中学時代、市内の柔道大会で3位になったこともある僕に目をつけていた。けれど、進学校の福知山高校に入るのは難しいとも考えていたそうです。そんなことを知る由もない僕は、お茶をにごして、逃げるようにその場を立ち去りました。

入学後は、すぐ柔道部に誘われました。でも僕にはプロレスラーという夢があったので、背を伸ばすためにバスケ部かバレー部に入るつもりでした。だから、「申し訳ありませんが入れません」と理由を話して断ったんです。ところが、「入部しなくてもいいから練習試合だけ出てくれ」と頼まれました。それならと試合に出たのですが、善戦むなしく負けてしまった。やっぱり負ければ悔しい。それで道場に行き、一緒に練習。また練習試合に出る。負ける。悔しいから道場に行くという繰り返しで、結局、柔道部の一員になりました。先生の作戦勝ちでした(笑)。

先生は、口数が少なく、手取り足取り指導するようなことは一切しません。徹底して本人に考え抜かせるのです。

「とことん悩め。教えてもらって答えを出すようでは、本当の意味で自分のものにはならない。とことん悩んで出てきたものが本当の答えだ。壁は己の力で乗り越えるものだ」—これが先生の教えでした。

当時は、高校時代は3年という短い期間しかないのだから、勿体振らずに教えてくれればいいのに、と思っていました。でも、いま振り返ってみれば、先生の教えは正しかった。悩みに悩み抜いた末に自分の答えを出す—その先生の教えが、「プロレスラー小橋建太」をつくりあげていったのだろうと思います。

ありがたいことに、先生とのお付き合いは卒業後も続きました。サラリーマンを2年で辞めて全日本プロレスに入った後も、練習生の僕に小遣いを渡して励ましてくれたり、自宅に招いてご飯を食べさせてくれたり、実の息子のようにかわいがってくれました。
僕の25年の現役生活は、病気やケガとの闘いの連続でした。全身麻酔の手術だけで10回以上。がんとも闘い、その都度、悩み抜いた末にどうすべきか自分で答えを出してきました。先生も喉頭がんにかかり、ケガの手術も経験してきています。そんな先生からの励ましに勇気づけられました。

ただ、頸のケガで僕の左半身が動かなくなったときは、「そんな状態まで……」と先生が涙を流してくれました。口には出さないけれど、ずっと心配していたのでしょう。昨年5月の引退セレモニーで、「よく頑張った。無事引退してホッとしている」と言われたときは感無量になりました。

先生は現在72歳。僕も46歳になりましたが、僕にとって、高橋先生は永遠に先生です。今後も先生の教えを胸に全力で突き進んでいこうと思います。

「週刊現代」2014年3月29日号より