心の支えができるまで~after3.11
震災直後の県立高田病院。瓦礫に阻まれ、近づくこともままならなかった。

2011年3月11日。日本中が悲しみと混乱に覆われたあの日から、3年以上の月日が経った。節目である今年の3月11日、「もう3年」なのか、「まだ3年」なのか、様々な時の流れと想いが東北の町々に錯綜していた。

フィリピン取材中だったあの日、第一報は日本の知人からの電話だった。「どうやら東北で地震があったらしい、詳しいことは分からない」と。その声には緊張感がなかった。東京でも交通機関が麻痺し、多くの人々が行き場を失くし混沌としている最中だった。誰も正確な情報を、すぐには把握できなかったのだ。あの時はまさか、東北の町が次々に波に飲み込まれていることなど想像すら出来なかった。

震災直後の沈黙

帰国後、車のトランクに積めるだけの物資を詰め、ひび割れた東北道と下道を乗り継いで北へと向かった。真っ先に足を運ぶことになったのは、岩手県沿岸の街の中でも最も南に位置する陸前高田市だった。夫の両親、つまり義理の父、義理の母がここで暮らしていたからだ。

朝日が昇り、暗闇だった市街地が照らし出された瞬間、累々と積み重なる瓦礫が視界を覆った。私が目にした陸前高田市街地は、そこにどんな街が存在したのか想像もできないほど、中心部が津波でごっそりとえぐられるように流されてしまっていた。震災前、2万4000人ほどが暮らしていたこの街で、死者・行方不明者の数は1700人を超えていた。

市街地に位置していた県立高田病院の4階で、義父は首まで波に浸かり、盛岡の病院に搬送されていた。天井まであと50センチというところまで義父は濁流に押し上げられたが、何とか屋上に逃れ、ずぶ濡れの状態でビニールやおむつを巻いて凍てつくような寒さをしのいだのだという。

それでも生きていてくれたと喜ぶ一方で、義母とは連絡が一切とれずにいた。市街地を目にするまでは確かに「生きている」と信じ、夫や義父を励まし続けていた。けれどもあの瞬間、「生きていたら奇跡かもしれない」という絶望的な気持ちが芽生えてしまった。どんな言葉を家族にかけても、一時の気休めにしかならないような気がしてならなかった。

ネット上や役場掲示板の避難者名簿に何度も義母の同姓同名が載り、急いで駆け付けるも全て人違い。3月はその繰り返しだった。やがて私たちは避難所通いをやめた。そして何百ものご遺体が並べられている、遺体安置所へと足を運ぶ日々が始まった。棺を一つ一つ覗きこみながら、大切な人の面影を少しでもそこに見出そうとする。声を無理やり押し殺したような沈黙が、薄暗い室内に流れていた。

「もうこのまま、見つからないのかもしれない」。震災発生から1ヵ月近く経った頃、誰も口には出さないものの、家族の心は疲弊し始めていた。警察から連絡が入ったのは4月8日のことだった。街を流れる気仙川の上流を遡ること9キロ地点、海など全く見えない場所で、捜索を続けて下さった消防団によって義母は瓦礫の下からようやく見つけ出された。発見された時、義母は家族として大切にしていた2匹の犬のリードを、しっかりとその手に握りしめていたままの姿であったそうだ。

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