第76回 正力松太郎(その二)「虎ノ門事件」で官界から離れる。後藤新平のカネで読売新聞社を買った

大正十二年十二月二十七日。
午前十時四十分。
御病気の大正天皇の名代として、摂政裕仁殿下は、第四十八帝国議会開院式に御出席のため、侍従長の入江為守と共に、お召自動車で赤坂離宮を出発し、虎ノ門にさしかかった。

当時は、戦後のような厳しい警備はなく、警官や憲兵も、ごく少なかった。
お召自動車が芝区琴平町の家具商「あめりか屋」にさしかかると、拝観者に交じって不審な動きをした青年がいた。

青年は素早く警戒線を破り、仕込み銃を構えて、摂政に向けて発砲した。
お召自動車のガラス窓から銃口の距離は十五センチ程度だったという。
右側のガラス窓に大きな亀裂が入り、車中に弾丸が散乱した。
摂政は無事だったが、入江侍従長は、顔に小さな傷を負った。
狙撃した青年、難波大助は、「革命万歳」を叫びつつ、走ってきた処を警官と憲兵にとり押さえられた。

政府の対応は、早かった。
山本権兵衛内閣は、その日のうちに辞表を提出した。
摂政から留任するようにとの優諚があったが、辞退して総辞職を決行した。
世に云う、虎ノ門事件である。

警察の責任者として免官処分を受けたのは、警視総監湯浅倉平、警視庁警務部長正力松太郎だった。
さらに大助の郷里、山口県知事橋本正治は二ヵ月間二割減俸、大助が上京の際、立ち寄ったという京都府知事池松時和は譴責処分を受けた。
かくして、正力松太郎の官界生活は、終わりをつげた。順調にいけば、次は県知事に就任するはずだった正力は、官界を去らざるを得なくなったのである。

案外早く、正力はカムバックの機会を得た。
神楽坂署長時代に懇意にしていた千葉博己が正力を訪ねてきたのである。
千葉はいきなり、正力に云ったという。

「あんたは、もう官界には戻れまい。奮起一番、新聞をやらんか。あんたなら出来るぞ」

たしかに、もう官吏にはなれない。それなら新聞をやるのも面白いのではないか・・・・・・。
財界の御意見番として君臨している、郷誠之助の意見は、かなり慎重だった。

正力は、伊豆長岡の後藤新平を訪ねた。
あいにく、後藤は、西園寺公望の興津の別荘に赴いていたのである。
夕方近くになり、後藤は帰ってきた。

「何しに来たんだ!」

後藤はいきなり云った。