第75回 正力松太郎(その一)警察官僚にしてプロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父---

正力松太郎---。
彼は、一体、いくつの人生を生きたのだろうか・・・・・・。
内務官僚として、治安維持に奔走し、社会主義者を容赦なく弾圧した人物。
倒産寸前の新聞社を、日本一にした経営者。
日本にベースボールを定着させた興行師。
戦犯に指定されながら、見事、カムバックした、したたかな世渡り上手。
街頭にテレビを設置したアイデアマン。
原子力の父。

正力は、昭和という時代を代表する人物だと云うことが出来るだろう。
その「代表」ぶりは、毀誉褒貶に塗れているが、それこそが、正力の面目なのだろう。

正力松太郎は、明治十八(一八八五)年四月十一日、富山県の射水郡枇杷首村(現射水市)で、父庄次郎の次男として生まれた。

正力家は、いわゆる土建を稼業とし、苗字、帯刀が許されていたという。
いわゆる中農という程度の家格であった。
松太郎は、虚弱な子供だった。
当時、ひ弱な子供は、寄宿舎から学校に通うのが通例だったが、庄次郎のやり方は違った。

八キロほどの道程を、毎日、地下足袋で歩かせたのである。勉強をするよりも、とにかく体を鍛えろ・・・・・・。
父の教えに従った松太郎は、たしかに健康になった。
もっとも、卒業の席次は、ビリから四番目だったけれど・・・・・・。
それでも、北陸の名門、第四高校に、そのまま進めたのだから、暢気な時代だった。
当時、第四高校では、西田幾多郎が倫理学を講じていたが、正力はその薫陶を受けたのだろうか・・・・・・。

たぶん、影響を受ける事はなかったような気がする。
柔道の選手としては、極めて優れた評価を受けていたらしい。無段だったのに、第三高校の大将を倒したというのだから。

第四高校卒業後、正力は東京帝大法科大学の独法科に進学した。
とはいうものの、大学のキャンパスよりも、講道館にいる時間の方が長かった。

大学の同級生には、重光葵と芦田均という二人の外務省出身の政治家と、経営者である石坂泰三がいた。
正力は、同郷の先輩、南弘―内閣書記官長、逓信大臣、台湾総督―に見込まれて、高等文官試験になんとか合格した。

南の配慮で正力は警視庁に入る事になった。
警部の辞令をうけとったのは、大正二年六月。二十八歳の時だった。