田原総一朗×植木義晴(JAL代表取締役社長)【第4回】「『今度はおまえがやれ』と言われて、逃げるという選択肢はなかった」
[左]植木義晴さん(JAL代表取締役社長)、[右]田原総一朗さん(ジャーナリスト)

【第3回】はこちらをご覧ください。

僕の役目は僕の立場で言うべきことをしっかり言うこと

田原: ところで、植木さんは稲盛さんから「社長になれ」と言われて、イヤだという気持ちはなかったんですか?

植木: なかったです。

田原: もう覚悟を決めていたわけですね?

植木: そういうのでもないです。田原さんは稲盛さんをどのように思っていますか?

田原: 僕は稲盛さんをとっても評価しているんですよ(笑)。

植木: あ、そうなんですか(笑)。私が2年間、どういうふうに稲盛さんをとらえていたかというと、名経営者といわれる人が目の前に現れた、でも僕は最初、「それがナンボのもんだよ」と思っていたわけですよ。

だって、「私は飛行機を35年間飛ばしてきた。素人に何がわかるんだ」という気持ちもあった。だけど、「それだけの人物であれば、この会社をこの人に託してもいいかな。いや、できれば託したい」という気持ちもありました。そして、ずっと近くで見ていて、やっぱりこの人は大した人だな、と感じました。

そういうのを信じて最後までついていくかどうかというのは理屈じゃないんですよ。やっぱり男が男に惚れて、「この人なら何があっても絶対に逃げない。俺たちの前面に立って闘ってくれる」という信頼を感じたから、「この人にすべてを預ける。僕の役目は僕の立場で言うべきことをしっかり言うことなんだ」と。それで一緒に2年間闘ってきたわけです。

それで2年後に「おまえが社長になれ」とその人から言われたときに、「ノー」という答えはないですよ。

田原: その稲盛さんの魅力ってどういうところですか?

植木: やっぱり意志の強さですね。

田原: 京都セラミックができたのは、彼らは元々京都の碍子屋さんに勤めていたんですね。そのときにアメリカでセラミック技術が出てきて、それで稲盛さんが碍子屋の社長さんに「セラミック事業をやろう」と言ったら「ノー」と言われたので独立して、20年くらいやったんですが、まったく売れなかった。日本中どこでも売れなかった。

日本というのは「顔」が大事な社会で、稲盛和夫なんて誰も名前も顔も知らないからテストすらしてくれない。それでどうしようもなくてアメリカに行くんですよね。アメリカはビジネスの国だからテストをしてくれて、テキサス・インスツルメンツという半導体の会社が買ってくれたわけです。

植木: それだけの情熱がなければそれができなかったということでしょうね。

田原: だから、僕は認めているんですよ。そういう意味ではモーレツ経営者なんですね。

植木: たしかにそういう意味でいえば、僕が稲盛さんに感じる匂いと同じようなものを、一代で創業してすべてを築いてこられたような方はみんな持っていますね。誰にも負けない強い意志と努力をする根性があって、かつ自分は誰にも負けないと思っていらっしゃいますね。

そうでないとあんなことはできないんですね、普通の人間の普通の魂では。それはやっぱり、圧倒的な存在感がありました。だから最初はわからないことがたくさんありましたけど、その度に食ってかかってはボロボロに言い破られて・・・という闘いをたくさん積み重ねましたし。

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