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西荻窪に古家を買って10年たつ。学生時代から合算すると西荻暮らしは20年近い。因縁というのか愛着というのか、転勤などでいったんよそへ移っても、何年後かには決まってこの街に戻っていた。もう離れたいと思わない。叶うなら、ここを終の棲家にしたい。

似たような気持ちの人は大勢いるらしい。青梅街道沿いのテニスクラブのベンチでSさんに「西荻って、いいとこだよね」と話すと、彼は肯き、しみじみ言った。「みんな、そう言うんだよねえ」。Sさんは西荻窪駅前で44年もラーメン屋を営む、物静かな人である。

みんな西荻のどこに惹かれるのだろう。税務署の傍の青色申告会に行ったら『西荻観光手帖』というガイドブックが置いてあった。順番を待つ間に表紙をめくると、こう書かれていた。

「いきなり元も子もないことを言うのですが、西荻は観光地ではありません。世界的に珍しい景勝地があるわけでもなく、貴重な動物が棲んでいるわけでもなく、豪華絢爛な建造物があるわけでもありません。東京23区の西の端、杉並区内の小さなエリアです」

つい引き込まれた。そう、西荻の良さは、こぢんまりとしてさりげないところだ。隣の吉祥寺・荻窪のような煌びやかさや騒々しさがない。しっとりと落ち着いた、懐かしい空気がほのかに漂っている。

駅の北西に、90年前移転してきたプロテスタント系の東京女子大と「野鳥の楽園」善福寺公園があるからだろうか。私の6歳上の姉も東京女子大に通っていた。彼女は善福寺公園わきの民家の離れを借り、就職後も住んでいた。

学生寮暮らしの私は金がなくなるたび、そこに転がりこんで飯を食べ、小遣いをもらった。大学の友人を連れて行くと、姉はなけなしの金でよくご馳走してくれた。

あのころの私たちはお金も食べ物も、そのつど持っている者が皆のため供出して当然という不思議な感覚を共有していた。自然な流れで、姉の離れは友人らとの酒盛りの場のようになり、私は寮住まいをやめてそこに居着いた。

『西荻観光手帖』の頁をさらにめくる。武蔵野台地の東に位置する、この一帯はきれいなわき水が多いところだ。火山灰土壌のため米の生育には向かず、昔から大根の栽培とたくあん漬が盛んだった。大正11年に西荻窪駅が開業したとき、周辺にはたくあんの臭いが充満していたそうだ。

翌年の関東大震災を機に著名作家たちが越してきて、雑木林や畑のなかに居を構えた。通勤者向けの借家も増え、その一軒に詩人の中原中也も暮らしたという。

知らなかった。あの中也が住んでいたとは。しかも、杉並区松庵の彫刻家・高田博厚のアトリエ近くに一軒家を借りていたという。松庵は私の現住地である。

私は幼時から中也の詩を聴いて育った。父が中也の出身地・山口で青春時代を送った縁もあり、ほろ酔い加減になると、中也の詩をよく口ずさんでいたからだ。

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