第73回 御木本幸吉(その二)天然真珠の質と量を上げたい。同郷の有力者を熱心に説得した

御木本幸吉は、海産物商人として、頭角をあらわし、商いの規模をひろげていった。
そうしたなか、幸吉は貿易品としての真珠にたいして、大きな関心を抱くようになったのである。
とはいえ、当時の天然真珠は、漁師が挟み獲りと名付けた方法で獲ったものや、海女が獲った貝から出てきたものを、商人が買い取ったものであった。

明治二十一年、幸吉は、真珠商人として、本格的にたつことを決断した。
明治初年以来、中国へは『俵物三品』と呼ばれたイリコ、干し鮑、鱶鰭や、天草、昆布などが、欧州むけには、生糸や茶が輸出されていた。天然真珠も、数こそ少ないものの、多少の収益があったという。

明治二十年には、英照皇太后の真珠お買い上げに際してその鑑定を宮内省から依頼されるようになっていた。

天然真珠は、稀少なものであり、どうしても数が少ない。
幸吉は、悩んだ末に、大日本水産会の幹事長、柳楢悦に、面会を申しこんだ。

柳は、海軍の水路部長をつとめた予備役海軍少将で、のちに第一回貴族院議員に勅撰された人物である。
地方の青年が面会できるような人物ではなかったが、柳はかつて伊勢藩の藩士であり、伊勢、志摩に格別な思いをもっていたのだ。
柳は、鳥羽の幸吉に、親しみを持って接したという。
幸吉は、柳に真珠が乱獲され激減していることを訴え、養殖事業の必要性を力説した。
柳の権威を背景にして、神明浦の漁民を説得できれば、幸吉は養殖事業を進展させられるのだ。

明治二十一年八月十三日。
柳は御木本家を訪ねた。
幸吉からの依頼を思いだして、伊勢新聞社長の松本宗一の息子、恒之助を同道していた。
幸吉は、さっそく二人を英虞湾、神明浦に案内し、真珠養殖の可能性を説いた。
九月に遠浅の海に杭を打ち、棕櫚の縄をはりめぐらした。小枝や石、瓦を吊し、真珠貝の稚貝を付着させようという目論見である。
それから三ヵ月。
幸吉は、縄に吊した小枝、石、瓦などに、真珠貝の稚貝が付着しているのを発見した。

稚貝は、ごく少ししかなかったが、とにかく貝の養殖は「成功」したのである。
明治二十三年四月一日から第三回内国勧業博覧会が、東京で開かれた。
天然真珠を出品したのは、長崎、高知、三重、沖縄、石川などだったという。
けれど幸吉の目論見は、斬新だった。
真珠だけではなく、生きた真珠貝を展示し、放養したのだ。

質の追求だけではなくデザインも洗練しよう

明治二十五年七月、東京帝大の佐々木忠次郎理学博士が、英虞湾内の真珠貝の成育と海底の深浅、土質の硬軟、潮流、水温などの連関を調べて、真珠研究の土台を作りあげた。