第72回 御木本幸吉(その一)足芸を披露して英国人に大評判。うどん屋の息子から「真珠王」へ―

真珠王として、一世を風靡した御木本幸吉の実家は、阿波幸と云う屋号で、うどんの製造と販売を家業としていた。
幸吉の祖父である吉蔵は、「うしろに目のある男」と云われたほど、商才にめぐまれていたという。
家業のうどん製造だけでなく、鳥羽港を足場に大伝馬船十艘と五棟の蔵を持っていた。

青物から薪炭まで手広く商いをひろげて、鳥羽藩主稲垣家の御用達になったという。
ところが幸吉の父である音吉は、幕末から明治にかけての変動をのりきれなかったのである。
祖父が残した、五棟の蔵も手放してしまった。
ただし音吉は、商才には乏しかったが、機械や工具の工夫、改良には目はしが利いていた。
重労働だった石臼の粉挽きを改良し、明治九年に新しい粉挽きを発明し、業界に大きく貢献したとして、三重県庁から賞金として百円を授与されている。

明治八年。
イギリスの測量船が、鳥羽に入港した。
鳥羽の商人たちは、商品を小舟に積んで測量船の周囲をとりまいたが、水夫たちはまったく相手にしない。

幸吉もさまざまな商品を、積んでいたが、相手にされない。
そこで幸吉は、得意の足芸を披露したのだ。
甲板から覗いていた水夫たちは、興味を示した。
長く退屈な航海に、倦んでいた彼らは、幸吉を甲板にあげた。
幸吉は、いろんな物をつかって足芸を披露したという。
その結果、彼らは商品を全部買ってくれた上に、ひき続いて測量船への出入りも自由にされたという。

幸吉の語る処によれば、芸能についても才能があったと云う。
京都から来た狂言師、野村又三郎に師事し、芸熱心を褒められた上に、免許を戴いたと述べている。

明治十年一月。
明治天皇は、神武天皇陵親拝及び孝明天皇式年祭のため、横浜港から軍艦四隻で、神戸港をへて大和に行幸するために出港した。
ところが出港の翌二十五日に暴風雨にあったため、鳥羽港に避難し、さらに二十六日には太政大臣三条実美、参議伊藤博文、侍従長東久世通禧などの高位高官を従えて、鳥羽に上陸した。

この行幸は、予定されたものではなかったが、わずか三メートルほどの幅しかない町なかを高位の官吏や軍人を従えた天皇陛下は、急遽用意された行在所―常安寺―に入られた。多感な青年の目に、陛下一行の煌びやかさは、どれほどの蠱惑を映しだしたことだろう。