「救われない現実を超えるチャンスは平等に与えられている」――ハリーポッターから7年。稀代のストーリーテラー、J.K.ローリングが描いた群像劇『カジュアル・ベイカンシー』

(文・堀川アサコ)

これほど人の尊厳に心揺さぶられたことはない

カジュアル・ベイカンシー』を手に取るときに、かの『ハリー・ポッター』シリーズの著者による長編小説であることを意識しない人はいないだろう。けれど、著者J.K.ローリングはこの小説を魔法世界の話とはしなかった。物語的な予定調和を徹底的に排して、リアルな小説に仕上げた。今からちょうど一年前、初めて『カジュアル・ベイカンシー』を読んだわたしは、その見事さに圧倒された。

そもそも、わたしは『ハリー・ポッター』の熱心なファンだったのである。日本語版が出るのを心待ちにして、書店に駆けつけていたものだ。わたし自身が小説家としてデビューするより前から読み始めて、ようやく専業作家になったころに全巻を読了した。それは人生の坂道の傾斜が険しくなり始めたあたりで、執筆に割り当てる時間を工面するのにも四苦八苦していた時期だ。

ローリングさんの描くのは、めくるめく魔法の世界。現実ととなり合わせにあり、ともすればその入り口が開きそうな架空の素晴らしい物語世界。心の喘鳴が聞こえそうな毎日を過ごす中で、『ハリー・ポッター』はわたしに逃げ込む場所を与えてくれていた。

 早く新作出ないかなあ。
 早く日本語訳出ないかなあ。

あくせく過ごす勤務先で、よくそんなことを云っていたのを、今でも覚えている。
けれど実のところ、『ハリー・ポッター』を読み進めるにつれて、少しずつ違和感を覚えてもいた。わたしのグチャグチャな毎日が、絢爛たる魔法の世界に溶け込めなくなっていたのか。それとも、ローリングさんの中の『ハリー・ポッター』が、育ち過ぎてしまったせいか。

非常に僭越ながら、わたしは後者だと思っている。

書き始めたころ、ハリーを取り巻く世界はローリングさん自身にとっても、現実から逃げ込む架空の避難所だったのではないだろうか。けれど、それがあまりに見事だったがために、世界中をとりこにする巨大な作品に成長した。そのころには書き手は、架空世界を描かねばならないほどの傷が癒えてしまい、また別の姿勢でハリーたちの成長を描いていたのではなかったろうか。

だから、『ハリー・ポッター』が終わってしまったとき、わたしは危惧を覚えた。ローリングさんはもう新しい小説を書くことはしないのではないかと思ったのだ。魔法世界に避難場所を求めずともよくなったローリングさんが再びペンを執るとしたら、どんな小説になるのか、まったく予想もできなかったのである。