官々愕々「二軍予算」というからくり
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2月2日日曜日の朝日新聞朝刊に、「ムダ判定予算 8割復活」という見出しで、'13年度補正予算に関する記事が掲載された。いくつかのテレビ番組でも、消費税増税をするのに、国民の血税がこんな無駄遣いのために消えていくのは許せない、などというコメントが流れた。

確かにそのとおりだ。しかし、こんなことは毎年の恒例行事で、驚くに当たらない。補正予算は無駄な事業に使っても仕方ないというのが霞が関の不文律。本予算の査定で認められない、二軍、三軍の予算が補正に回る決まりになっているのだ。

予算というのは、規制権限と並んで、官僚の力の源泉である。多額の予算を取ればそれだけ、自分の役所の所管業界に恩が売れるし、関係団体に回す資金が増え、それらの団体における天下りポストも増える。

だから、本予算だろうと補正予算だろうと関係なく、官僚は1円でも多くの予算を獲得しようとする。それは、自分たちの給料になるわけではないが、間違いなく、その省庁の官僚の将来の天下り人生を確実にする上に、予算を増やせば人事評価で得点になる。

実際には、どういうことが起きるのか。筆者は、経産省の会計課で財務省の主査と予算を仕切る立場にいたのでそのからくりがよくわかる。予算の査定は、壮大な政治ショーだ。

まず、本予算の査定が先に始まる。財務省は、厳しい査定方針を示して、各省の予算を大きく削る素振りを見せる。その姿勢は、各省の会計課を通じて、担当課、族議員、関係業界などに伝えられる。厳しいと知った業界団体は、族議員と所管省庁に足繁く通って、予算獲得の陳情を行う。最後につく予算が同じだとすると、最初に厳しく言っておいた方が、予算がついたときの有難みが大きくなるので、財務省は非常に厳しい情報を流す。その上で、最終的にはかなりの予算をつける。最初の相場観が下がっているので、喜びも大きくなるという仕掛けだ。

もちろん、誰が見ても筋が悪いという予算要求も多い。そういうものは、最終段階でもゼロ査定または大幅な減額査定を受ける。面白いことに、演技をするのは財務省だけではない。業界や所管の役所は、まあ仕方がないかと内心思いながら、大げさに、「これではとてももちません」などと嘆いてみせる。

一方、本予算の査定の途中段階で、財務省と各省会計課は、本予算でダメなものは、補正に回そうという相談をする。そして、本予算でがっかりさせておいて、補正で同じ予算を認めるのである。一度、ダメだと思っていただけに喜びもひとしお、ということになる仕掛けだ。

ここまで言えば、お分かりのとおり、本予算と補正予算は別のものだというのは、ただの建前に過ぎない。実際には、完全に一体のものとして扱われている。「15ヵ月予算」という言葉を聞いたことがあるだろう。今年度の1月から3月の補正予算と来年度の12ヵ月の本予算を一体のものとして表す表現だ。予算に切れ目をなくすという意味で使われるが、官僚から見れば要するにどんぶり勘定。どちらでもカネに色はついていない。二軍予算と言われても、取ってしまえばこちらのもの。

安倍総理が議長となって、行政改革推進会議で厳しい「ムダ判定」を出した時から、財務省と各省の間では、そのほとんどを補正で認めるということになっていたはずだ。そもそもムダ判定の案そのものも財務省が作っている。すべて出来レース。官僚が国民のために働く仕組みを作らない限り、このからくりはなくならないだろう。

『週刊現代』2014年2月22日号より

原発の倫理学(税別価格:1400円)
話題作『原発ホワイトアウト』著者・若杉冽氏推薦! 「霞が関には古賀さんを隠れキリシタンのように慕っている官僚たちがいる。原発の裏も表も全部わかる必読書」

原発は「倫理的」に許されないエネルギーだという議論をすると、それは「感情的」あるいは「主観的」な議論であるというレッテル張りをされる傾向があります。経済論や技術論は受け入れられても倫理論は受け入れられないのが現状だと言ってよいでしょう。しかし、倫理の問題は、経済や技術の分野でも非常に重要な問題です。二人の元総理(小泉氏と細川氏)が期せずして脱原発を「人の生き方の問題」「倫理の問題」として語り始めたことは、極めて重要な意味があります。私が小泉氏や細川氏に期待するのは、大きな哲学、「脱原発の倫理観」を国民に提示し、国民的大議論を巻き起こすことです。議論の末、国民の大多数が新しい日本の生き方、「脱原発と再生可能エネルギーで、自然とともに生きる国日本」を目指すという共通の目標に到達すれば、その時初めて、脱原発が可能になるのだと思います。――<「はじめに」より抜粋>

※本書は2013年5月に先行発売した電子書籍『原発の倫理学 古賀茂明の論考』の内容を大幅にアップデートした上で再編集したものです。