『天皇――「君主」の父、「民主」の子』著:保坂正康
二人の象徴天皇――それぞれの「戦争と平和」に秘められた昭和史の真実

(解説:井上亮・日本経済新聞編集委員)

昭和天皇と今上天皇。
天皇家の父子のみが知る激動、
そして「新時代の皇室」への軌跡

1989年に即位した明仁天皇は、2014年に在位25年を迎えた。明治、昭和とくらべて、まだまだ短いと思われるかもしれないが、天皇の長い歴史のなかでは四半世紀の在位期間は長期の部類に入る。のちの世では、平成は明確な輪郭をもった一時代としてイメージされることになるだろう。

保阪氏は本書で「天皇の性格が時代の空気をも生みだしていたのではないかと思える」

「その空気が各時代の望まれる人間像をつくっている」と述べている。近代以降に関して、この見方はかなり正鵠(せいこく)を射ているといえる。

日清・日露戦争を経て帝国主義国家へと踏み出した明治は「武」でイメージされている。大正デモクラシーの時代と漢詩を愛した大正天皇を「文」でくくることに異論は少ないだろう。昭和の場合は少し複雑で、大日本帝国憲法下の大元帥時代は武、戦後の日本国憲法下の象徴時代は文に分裂しているといえるだろうか。

天皇のあり方が時代の空気と相関関係にあるとすれば、大元帥であった昭和天皇が一貫して「平和主義者」であったという定説には疑問符がつく。ただ、側近などが残した日記、手記から明らかになっている昭和天皇の人間像は学究的な文人であり、資質としては文といって間違いない。昭和前半二十年の日本国家が、司馬遼太郎いうところの「鬼胎」の観を呈した要因に、時代の空気と天皇の資質の乖離もあったのではないかと思えてくる。

では、戦後に武を捨て去り、文の平和主義を掲げた日本国家と天皇像は合致したといえるだろうか。ことはそう単純ではない。保阪氏は明治から昭和前期までを「君主制下の軍事主導体制」、戦後の昭和を「君主制下の民主主義体制」と定義した。

君主制下の民主主義は立憲君主制と同意のようにも受け取れるが、似て非なるところがある。戦前も形式的には立憲君主制であった。保阪氏のいわんとするのは、天皇のあり方と国家体制の実態的な姿のことだろう。

大日本帝国憲法では国民すべては天皇の臣民であり、両者の関係は明確だった。「国体は変更しない」という建前で降伏を受け入れた日本は、戦後の日本国憲法制定であきらかに国家体制が変わったにもかかわらず、この点をあいまいにし続けた。