読書人の雑誌『本』
『幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで』著:橋本一夫---五輪戦士たちの哀感

地方へ出かけたりしてスポーツの話をすると、終わった後で「いちばん印象に残っているオリンピックは?」と訊かれることがよくある。いつも私は、こう答えている。

「一九六四年の東京五輪を別にすると、それは一九八○年のモスクワ五輪です」

モスクワ五輪は、旧ソ連のアフガニスタン軍事侵攻に抗議して米国、日本、旧西独などの西側諸国がボイコットし、〝片肺五輪〟と呼ばれた大会である。戦後、あれほど国際情勢に翻弄された五輪はなかったし、あれほど緊迫感に包まれた大会もなかった。

ボイコットの動きは、米国のカーター大統領が主唱して始まった。IOC(国際オリンピック委員会)の第六代会長ロード・キラニンはワシントンに飛び、カーター大統領に翻意を促したが、米国側の態度は変わらなかった。モスクワ五輪の参加国は結局、それまでで最大規模のミュンヘン五輪(一九七二)を四十一ヵ国も下回る八十ヵ国にとどまった。

各国の動きを見ていたJOC(日本オリンピック委員会)も、最終的には日本政府の方針に従い不参加を決定する。

多くの選手がJOCに大会への参加を直訴したほか、国の代表ではなく個人の資格で参加する方法などを模索したが、そのどれもが実現しなかった。モスクワの金メダル候補との呼び声が高かった瀬古利彦(マラソン)や山下泰裕(柔道)らは涙をのんだ。山下は、次のロサンゼルス五輪(一九八四)で念願の無差別級優勝を果たしたが、瀬古は調整の失敗から十四位に終わり、ついに五輪の表彰台に立つことはなかった。

モスクワ五輪の開会式は、一九八○年七月十九日、壮大なレーニン中央スタジアムで行われたが、参加国の中には入場行進に選手団が姿を見せなかったり、旗手ひとりだけが行進、さらには国旗の代わりに五輪旗やNOC(国内オリンピック委員会)旗を掲げて行進する選手団もあるなど、それまでの五輪には見られなかった異様な幕開けであった。

私は開会式の会場には行かず、NHKモスクワ支局でテレビの実況中継を見守っていたが、それはまことに〝型破り〟の中継だった。選手団が行進しない国の順番がくると、画面は突然、スタンドの全景に切り替えられたりして、どこの国が行進しているのか判然としないことが多かった。整然と演出された開会式ではあったが、ボイコットの傷跡は深く、会場にはポッカリと穴のあいたような空虚感が漂っていた。

十六日間にわたって開催された大会の最終日、私は閉会式でIOC会長キラニンがこの五輪をどう総括するかに注目した。

 
◆内容紹介
関東大震災からの復興をアピールし、「皇紀二千六百年」を記念して構想された一九四〇年の東京オリンピックは、ヒトラーやムソリーニとの取引で招致に成功したものの、「満州国」参加の可否、天皇の開会宣言など問題は山積みだった。そして日中戦争が勃発、ついに返上を余儀なくされる。戦争と政治に翻弄された五輪の悲劇と、尽力した人々の苦悩を描く。