現代新書
米軍が見た日本軍
『日本軍と日本兵』著者・一ノ瀬俊也氏インタビュー

一ノ瀬 俊也

――なぜ日本軍は「玉砕」を選んだのでしょうか?

一ノ瀬 多くの研究者が指摘されていることですが、190405年の日露戦争で日本軍兵士の精神力が実は強くなく、集団での潰走などが多発したことから、戦後にいわゆる「精神教育」が強化されます。このなかで「降伏するくらいなら死ぬまで戦え」という論理が強く唱えられ、次第に将校たちに内面化されていきます。1941年の「戦陣訓」はこれを明文化したものに過ぎません。そのため降伏するくらいなら「玉砕」するということになる。さらに、本書に少しだけ出てくるのですが、ノモンハン事件で退却した将校が自決を強いられたという噂が広まっており(事実です)、このことも指揮官たちに「玉砕」への途を選ばせた要因となるでしょう。さらに戦争後半においては、捕虜となった者への米軍側の虐待(マスコミなどがサイパンでの米軍の悪逆ぶりを大々的に報道した)や、家族に対する近隣社会の冷酷な扱いへの恐怖も挙げられるでしょう。

――意外に思ったのは、硫黄島・沖縄と戦線が縮小して本土からの補給線が短くなると、日本兵の装備が、武器、服装、食料など多くの面において充実したものになっていったということです。とすると、これは純粋な仮定の話になりますが、もし本土上陸戦が行われていたとすれば、相当な激戦になっていたのでしょうか?

一ノ瀬 沖縄戦と同じく多数の住民を巻き添えにしたことは間違いないと思いますし、米軍が予想した自軍の犠牲者もかなり上下に幅はあるものの、決して少なくありません。ただ、沖縄や硫黄島ほどの深刻な犠牲を強要できたかというと難しいように思います。これらの戦いでは狭い島に強固な陣地を築いて突破を試みる米軍に濃密な火力を浴びせることができましたが、本土では陣地構築は遅れ、関東平野という総体的に広く平らな地形での戦いとなるわけですから、日本軍にとってはきわめて不利でした。この点は、実のところ陸軍も口が裂けても言えなかったでしょうが自覚していたと思います。実際、昭和天皇に「陸軍は本土決戦と言うが九十九里浜の防御ひとつろくにできていないではないか」と指摘されて返す言葉もなく、ポツダム宣言受諾を受け入れざるを得ませんでした。「相当な激戦」にはそれを可能にする士気が必要ですが、実際には落ちるところまで落ちていたとも言えます。そのことは、沖縄戦の段階でもかなり多数の投降者が出ていること、降伏後にごく一部の徹底抗戦派を除く全陸軍の武装解除がスムーズに進んだことからも明白でしょう。

「人命軽視」、それが旧日本軍の本質

一ノ瀬俊也(いちのせ としや)1971年福岡県生まれ。九州大学文学部史学科卒業、同大学大学院比較社会文化研究科博士課程中退。博士(比較社会文化)。現在、埼玉大学教養学部准教授。専攻は日本近現代史。『皇軍兵士の日常生活』(講談社現代新書)、『戦場に舞ったビラ』(講談社選書メチエ)など著書多数

――総体的に日本軍の戦い方をどう評価されますか? 日本軍は「非合理的な」組織だったのでしょうか?

一ノ瀬 日本軍の戦い方は人命軽視、この一点につきます。人の命がものすごく安い。例えば後宮淳参謀次長は米軍戦車に肉弾攻撃をかけて自爆した兵士は三階級特進させると主張し、それを「どうだ、立派な戦法だろう」と自慢するのですね。これを聞いたのは八原博通という参謀ですが、彼もそのことに特に疑念を持っていない。当時はそれが当たり前であったといえばそれまでですが、かつての日本人の命が非常に安かったということは、やはりどこかで記憶しておく必要はある。