第64回 藤山寛美(その三)解雇された松竹で復帰を果たした。連日大入りでも借金は減らない―

昭和四十年九月十三日、午後六時十五分。
渋谷天外が倒れた、という知らせが、届いた。
脳出血だという。

「んなことあるかいな、つい先日、服部良一先生や一龍斎貞丈先生と、てんごしてはったやないか」

自伝『笑うとくなはれ』の出版記念会で「この男に酒を呑ませたらあかんで」と書いたプラカードを首からかけて、機嫌よくブランデーを呑んでいた天外の姿を、寛美は想起したのだった。

楽屋口の大時計の下に倒れた親父は、「動かすなよ」と命じた後、椅子に座り直した。

経過は順調で、療養をすれば、恢復するだろう、というのが医者の見立てであった。
しばらく養生していれば、早晩、復帰できるだろう・・・・・・。
重い後遺症もないらしいし・・・・・・。

けれども、舞台は続けなければならない。
そのため、松竹新喜劇は、ミヤコ蝶々と南都雄二が一座に加わることになった。
二人の加入は喜ばしい事だが、長い間、芸の世界で生きてきた二人、特に蝶々の矜持はなみなみならぬものがあった。
家具屋を営んでいた父は、芸事好きが高じて、自ら一座を構え、蝶々を座長に据えて、安来節を歌わせたという。

その後、バレエから水芸、漫才など、ありとあらゆる舞台にたってきた。
覚醒剤中毒になり、強制入院をさせられたが、克服。以降、南都雄二とコンビを組んで、漫才や喜劇で活躍した。

ただ、蝶々と寛美の関係はかなり微妙なものだったようだ。

「蝶々さんも私も舞台に出ると、たしかにお客は笑う。/二人の一挙手一投足に、観客が興味をもっていると思いこむ。笑いを期待しているはずだと。/これはある種のジレンマではないのか。/いつも満塁ホーマーを打たなければいけないバッターと同じ心理で、いつのまにか重い不安が自分の背後にやってくる。/これが孤独というものであろうか。」(『あほやなあ 喜劇役者の悲しい自伝』)

一方、借金は、いよいよ泥沼化していた。
『朝日新聞』に、「寛美を食いもの。金融暴力団六人、債権二百五十万円山分け」という記事が出てしまったのである。

NHKは、藤山寛美を一切遣わないことにした。あげくの果てに、松竹から解雇された。