新春スペシャル・インタビュー 平成になり、世の中は確実に変わった 立花隆 団塊世代よ、昭和を語ろう

戦後の引き揚げ体験、放浪中の中東で知った「角栄政権誕生」——。
自分史を振り返ることで見えてくるものがある。

自己を見つめ直すための最良の方法は、自分史を書くことだ。評論家・立花隆氏はそう語る。では、立花隆その人が生きた「昭和」とは、どのような時代だったのか—知の巨人が「自分史」を語った。

人生で最初の強い記憶

1940年生まれの私にとって、実感できる「昭和」とは戦後のことです。第二次世界大戦を挟んで、昭和の日本はまったく違う国家に大転換したと言える。しかし、あれほどの酷い戦争をなぜ防げなかったのか、またその後の国家の変革において、実際に何があったか肝心のところがよくわかっていない。

戦争の資料は敗戦した途端に軍部と各官庁が焼きに焼いて廃棄してしまった。宮中の御簾の向こう側のことはもともとほとんどわからない。GHQの占領下の日本についても、資料は闇の中です。そして、戦後69年が経ち、当時を知る人たちも次々と亡くなってしまっている。歴史はわからないことだらけです。

そしていまは、過去がわからない以上に、先の展望がわからない時代。時代は確実にいま「大転換」を遂げつつあることを感じさせるのに、先が見えない。過去もよくわかっていないから、どのような大転換なのかがわからない。このような不透明な時代だからこそ、市井の人間たちが、自らが生きた時代を書き残し、後世に伝えることが求められているのです。

私は先頃、『自分史の書き方』を上梓しました。この本は、立教大学のシニア世代向けコース『立教セカンドステージ大学』で行った「現代史の中の自分史」と題した講義をまとめたものです。講義では、学生各自が「自分史」を書き上げることを目標に、「てにをは」からはじまり、「自分史年表」の作り方などを徹底的に指導しました。

この本では、受講生が実際に書いた自分史をいくつか紹介しています。受講生に多かったのはいわゆる「団塊の世代」。そして、自分史作りを教えるなかで強調したのは、「自分が生きた時代が、どういう時代であったのか」を意識しつつ書くことです。つまり本書は、団塊の世代がいかに「昭和」を生きたかを、自ら語る本でもあるのです。

とくに、まず自分の生い立ちと「ファミリー・ヒストリー」を書くように指導しました。いざ自分史を書くとなると、自らの家族の歴史について、あまりにも知らないことに気づかされるものです。

私自身のことで言えば、北京からの引き揚げから、「自分史」をスタートさせることになるでしょう。昭和15年、私は長崎県で生まれました。父は女学校で国語と漢文を教える教師でしたが、私が生まれてまもなく、突然家を出て中国の北京に行ってしまいました。日中戦争の最中のことです。残された母親は仕方なく、私と2歳上の兄を連れて茨城県水戸市近郊の実家に帰りました。

1年後、父から連絡があり、私たち3人は神戸から船で中国に渡りました。父は北京で教育職の公務員に就いており、そう悪くない生活でしたが、やがて第二次世界大戦が起こり、昭和20年8月15日、日本は敗戦の日を迎えるわけです。

それから、引き揚げの旅が始まりました。5歳の私も、大きな大人用のリュックをかつがされ、延々と歩かされた記憶が残っています。トラックや貨物列車を乗りつぎ、収容所のようなところに入れられ、旅から旅への毎日。一歩間違うと残留孤児でした。

やっと引き揚げ船に乗ることができて、着いたのは山口県の小さな漁村。そこからすし詰めの列車を乗り継いで、茨城県の母親の実家に帰ったのです。そんなわけで、私の人生の最初の強い記憶は、旅から旅への毎日です。北京、そしてそこからの引き揚げという幼児体験で始まっているので、潜在意識に、旅にあることこそ人の世の常という意識が深く埋め込まれています。40代半ばで結婚するまで、2年以上定住することはありませんでしたね。

その後水戸に引っ越し、小、中学と通いました。文字通りの活字中毒者で、中学卒業まで図書館に通って、「世界文学全集」を読み漁り、図書館のほとんどの本を読破しました。高校は、水戸一高に進学し、大学では理科系に進もうと考えていました。ところが、転校した東京の上野高校の先生に、「きみは色覚障害だから理科に行ってもダメだ」と言われたんです。大きな挫折でしたね。今はそんなことはないようですが、やむなく「じゃあ、文学かな」と考えて、東京大学の仏文科に進みました。

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