ブルーバックス
『死なないやつら』
極限から考える「生命とは何か」
長沼 毅=著

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「いのち」はなぜこんなに強いのか?
シュレーディンガーの生命観、エントロピー増大の原理を超えて
40億年も地球にはびこる「不安定な炭素化合物」の本質に迫る


はじめに

 私は「生命とは何か」について考えたいと思って生物学を志しました。生物学では、具体的な「モノ」としての生物体のなりたちや「コト」としての生命現象のはたらきを調べます。でも、生物学の教科書や論文をいくら読んでも「生命とは何か」の答えは書いていないし、その答えに近づける気さえもしませんでした。やがて私は、自分が学びたかったのは具体的な物事を対象とした生物学ではなく、思索的でなかば哲学のような「生命学」だったのではないか、という疑問にかられました。生物学は英語で「バイオロジー」(biology)といいます。その語源はギリシア語の「ピオス」(bios=生命)と「ロギア」(logia=学)ですから、そのまま訳せば「生物学」ではなく「生命学」ではないか、と。

 さらに、英語には独特の「同族目的語」というものがあります。たとえば「live a life」(ライフを生きる)のlife。この言葉には「生活、人生、生命」など、次元の異なる意味がすべて含まれています。ならば「ライフを生きる」ことにも、重層的な意味があるのではないか、とも。

 いま思い返せば、どれもこれも屁理屈でした。でも学生の頃の私は大いに悩んだのです。学校で教わる生物学なんて、実は死体を調べる死物学か、カピ臭い博物学なのではないか。どこに私が欲する生命学があるのか──。もう30年以上前の話です。実際には、いまの生物学や博物学は実に生き生きしていると思います。

 ところで、私が冒頭で使った「なりたち」や「はたらき」という言葉は、実に含蓄のある日本語です。たとえば和英辞典で「なりたち」を引くと「歴史・起源・組織・構造・要素」と書いてありますし、「はたらき」は「労働・能力・作用・運用・活動・効用」とあります。そうか、生命の「なりたち」「はたらき」と言い換えれば、自分が生命について何を学べばいいのかが見えてくるじゃないか。若い私はそう考えて、生物学ならぬ生命学を勉強してきたのです。

 しかし、次第に私は、そんな自分勝手な生命学は結局、具体性も現実性もない、頭でっかちの机上の空論だと思うようにもなりました(実際には机上の空論などではないのですが)。そこで、自分に欠けているもの──具体性、現実性──を装備するため、野に山に、川や海に出ることにしました。それまでが頭でっかちだったせいか、外に出たら逆に弾けてしまい、気がつけば辺境の地、いわゆる極限環境にも通うようになっていました。そしてついには「科学界のインディ・ジョーンズ」と呼ばれるまでになったわけですが、本性は出不精の引き龍りなのにそういわれるのは〝こそばゆい〟ところです。

 実際に極限環境に行ってみて思い知らされたのは、頭でっかちな自分の脳内世界がなんとちっぽけか、ということでした。自分はいったい何を学んできたのか、何を知った気になっていたのか──それは衝撃でしたが、同時に歓びでもありました。知りたいことは「現場」にある、とわかったから。こうして私は「現場主義」を標榜するようになり、ますます極限環境に惹きつけられていったのです。

 この本の背景には、そんな私の生命学の遍歴があります。それは生命学を謳いつつ、実のところは生命論にすらなっていない、ただ屈理屈をこねくり回してきた遍歴ですが、いわゆる主流の生物学、王道のバイオロジーに対する「バイオロジー外伝」もしくは「バイオロジー異聞」というか、ちょっと変わったバイオロジーの視座を発見していただけるかな、と思っています。