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ああ、こんな時代に生まれなくてよかった---"正しくない鑑賞者"が初めて見た小津映画『彼岸花』

神保町シアターで、11月より12月にかけて小津映画特集をやっている。毎日、4~5本ずつ上映しており、作品のほとんど、しかも、無声映画まで見ることができる。

小津安二郎監督は、1903年12月12日に生まれ、1963年の同じ日、つまり、還暦のお誕生日に亡くなった。つまり、今年の12月12日は、生誕110年、かつ没後50年で、私はまさにそのお誕生日であり命日である記念すべき日に、小津映画を見に行った。根っからのファンがやりそうなことだが、私が小津映画を見たのは、実は初めてだ。

人生60年。その間に小津は54本もの映画を作った。戦争中は、召集されて、中国やらシンガポールにも行っている。昔は、時間の流れ方が違ったのだろうか。なぜ、これほど短い間に、これほど多くのことを完遂できたのか。

そういえば、メンデルスゾーンは38歳、モーツァルトは35歳、シューベルトは31歳で亡くなったが、彼らも数えきれないほどの作品を残している。メンデルスゾーンの無くなった26年前、のちのヨーロッパ世界を決定的に変革したナポレオンは、51歳で没した。

それに比べて、私は何と無為に生きていることかと思う。私が31歳で死んでいたら、何もせずに死んでいたところだった。しかも、この先100歳まで生きたとしても、有意義なものを残せそうな気はしない。まあ、私のことはどうでもいい。小津映画だ。

幸せを測る尺度は一つではない

この日見たのは『彼岸花』という映画で、1958年の作品。世の中からは戦争の傷跡が次第に消え、ガンガンと経済発展が始まる直前の明るい時代だ。戦争で生き残った3人のお父さんと、1人のお母さんが、皆、自分の娘の結婚で頭を悩ませている。

そこには、今では風前の灯となってしまった戦前のモラルが、まだしっかりと息づいている。それでも、戦後の風と共に新しい考え方も勃興してきており、それが古いモラルとぶつかり合い、多くの摩擦を引き起こす。小津映画を見るのは、時代の過渡期を見ることに等しい。

娘たちはどこかで男性と知り合い、恋愛し、結婚しようとする。しかし、親にしてみれば、娘が自分で結婚相手を見つける事自体、すでに言語道断だ。娘は親の選んだ無難な、いや、最良の男性と結婚して幸せになるべきであり、野良犬のように、自分で見つけてきた相手と、勝手につがいになったりしてはいけない。それは正しいことでもないし、幸せにつながる道であるはずもないというのが、親の考え。娘の婿を選ぶのは、娘の幸せを一番考えている親なのである。

もう、そこで私は行き詰ってしまう。幸せの形は千差万別だ。お金があれば幸せな人もいれば、お金があっても不幸せな人もいる。幸せを測る尺度は一つではない。それに、いくら娘のこととはいえ、この男性と結婚すれば幸せと、なぜ決められるのか。

もし、幸せにならなかったら、親は責任を取れるのか? 立派で、優しくて、稼ぎが良くて、誠実な男性は確かに理想的だが、馬が合うかどうか、話ができるかどうかはまた別の話。それとも、当時の親の、娘の人生に対して求めていた物自体が違っていたのか? 

『彼岸花』に出てくる人々は、皆、ブルジョアだ。そして、皆、いい人。しかし、戦後のあの時代、家に住み込みのお手伝いさんを置いていた人が、何パーセントいただろう。お父さんは、ゴルフをする。そのゴルフ風景が、また私の神経に触る。

「君、君!」と威張っている男性の後ろを、重いゴルフバッグを担いだ小さな女性がトコトコ付いて歩く。その女性でさえ幸せそうなのだが、でも、この図を素直に嚥下することが私にはできない。

たとえ職業と割り切っても、かつ、時代の違いだと思い込もうとしても、この男たちは、自分の娘に、金持ちで学のある立派な婿を探してやろうとしている自分の娘に、重いゴルフバックを担がせただろうかなどと、余計な考えが浮かんできてしまう。

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