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私ももう少しドイツの良いところを見なくては---人生で大切なものが見えてくる映画『おじいちゃんの里帰り』を観て思ったこと

おじいちゃんの里帰り』はとても良い映画だった。ドイツ生まれのトルコ人監督が作った映画、いや、正確に言うなら、トルコ系ドイツ人の女性監督が作った映画だ。監督のヤセミン・サムデレリは移民二世で、脚本は自分の体験を基にしているという。

ドイツ政府とトルコ政府が協定を結んで、トルコ人労働者がドイツに入り始めたのは、1961年のことだ。ドイツは、1950年代の初めより経済成長が目覚ましく、農業も工業も、そして鉱業も、深刻な労働力不足に見舞われていた。そこで、まず1955年、イタリア政府と労働者導入の契約を結び、1960年にはスペインとギリシャ。それでも労働力不足は解消されず、翌1961年にトルコの労働者が入り始めた。

1964年にドイツで100万人目の外国人労働者がケルンの駅に到着し、公式に迎えられる。38歳のポルトガル人、アルマンド・ロドリゲスだ。彼が何十人ものカメラマンに囲まれて、おまけに原付自転車までプレゼントされ、何が起こったのかわからず、目を白黒させている写真は、今ではドイツでは誰でも知っているほど有名だ。

しかし、奇跡の復興は永遠には続かず、ドイツ経済にも陰りが見え始める。そのうえ1973年、石油ショックが起こり、ドイツ政府は労働者の動員を停止する。ただ、すでに何年もドイツで暮らしている外国人を強制的に帰国させるわけにはいかず、彼らは、祖国に戻るか、ドイツに残るか、二者択一を迫られることになった。

その結果、かなりのイタリア人やポルトガル人が国へ戻ったが、トルコ人はドイツに残るという決断をした人が断然多かった。他国の労働者とは比べ物にならないほど、貧しい地域から来ていたのだろう。

ちなみに、1955年の最初の外国人労働者招聘から、1973年の停止までの18年間に、のべ1400万人の外国人労働者が、政府間契約でドイツに入ったという。そして、その最後の1973年当時、ドイツで暮らしていたトルコ人は50万~75万人もいたことがきっかけとなり、以後、ドイツはトルコ系の移民をたくさん抱えた国となるのである。

苦労があるからこそ家族の絆は強かった

映画の主役、フセインは、アルマンド・ロドリゲスと同じ日に、100万1人目の労働者としてドイツに到着したトルコ人労働者という設定だ。そして、やはり彼も、ドイツに残った。今ではリタイアし、悠々自適の生活。大家族が時々集まり、楽しく暮らしている。

この映画の主役、フセインとその夫人は、素晴らしい人たちだ。体中に、優しさとユーモアと、そして、人生の知恵がたくさん詰まっていて、苦労や悲しみはすでに浄化され、今ではすべてが美しい笑顔に凝縮されている。困ったことがあったら、こういう人に相談したい。

ドイツ生活がもうすぐ50年というとき、ようやく、フセイン夫婦にドイツ帰化が認可される。夫人はドイツのパスポートを手にしたことが嬉しくてしようがない。いつも頭にスカーフを付けている典型的なトルコ婦人だが、ドイツのこともとても好きなのだ。

しかし、フセインは何となくすっきりしない。自分がドイツ人になることに大きな抵抗がある。実は私も、ドイツの国籍なら、もう何年も前から取れるが、自分は日本人だと思っているので、日本の国籍を手放す気はない。だから、フセインじいさんの葛藤がとてもよくわかる。私はドイツ国に忠誠を誓えない。

映画では、こういった現実の話の中に、この二人がトルコで結婚してから今日まで歩んできた歴史を孫に聞かせるという設定で、お伽話のように織り込まれる。実に、ファンタジーに富んだ演出だ。

フセインは、トルコの中でもとても貧しい地方の出身で、故郷では懸命に働いても、妻と3人の子供を養うのすら一苦労だった。その生活苦から抜け出すため、ドイツ行き労働者の募集に応じるのだが、当時の身体検査などの様子が、ユーモアを交えながらも、結構リアルに描かれる。そして、ついに単身ドイツに渡った彼は、言葉もわからず、風習も違う土地で必死で働き、そのうち、妻と子供を呼び寄せ、次第に異国での足元を固めていく。

トルコ人がドイツで感じたカルチャーショックというのは、私たち日本人が感じたそれとは、格段の差があったに違いない。この映画の中でも、呼び寄せられた妻が生まれて初めて様式の水洗トイレを見て、目をまん丸くするシーンが出てくる。木彫りの十字架に掛かったキリストの像も、彼らにとっては気味が悪い。それどころか、そんな木彫りの物を崇拝の対象にするということ自体が、イスラム教徒には想像できないことだった。

当たり前の日常生活も戦いの連続だ。買い物に行っても言葉が通じない。外へ一歩出れば、四面楚歌。今でこそ、トルコ人は家ではトルコの衛星放送を見ているが、当時はそんなものもなかった。故郷から遠く離れて、どんなにか不安で、寂しかっただろうと思う。

しかも、彼らの多くは単純労働者として、ドイツ人が嫌がる仕事に就いていた。偏見や差別もあったに違いない。子供たちでさえ、まるで言葉がわからないまま、突然、ドイツの学校に放り込まれたのである。大人も子供も苦労をした。そして、おそらく、だからこそ、家族の絆は強かったに違いない。

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