第59回 エルヴィス・プレスリー(その一)
極貧の家庭から世界的スターへ―若者を熱狂させた「ロックの王様」

二〇〇九年九月。
私は、メンフィスを訪れた。
その頃は、写真熱が最高潮を迎えていた時期で、ウィリアム・エグルストンが切り取った、鄙びた南部の街角を、自分も撮りたいと、思ったのである。

実際の処、写真はたいして上手く撮れなかったけれど、メンフィスの中心地であるビール・ストリートに軒を連ねているライブ・ハウスは、いかしていたし―もっとも、ライブが終わった後、黒人のギタリストがCDを売っていたので土産替わりに買ったが、まったく楽曲が入っていなかったのには参ったけれど―、かなり愉しい街だった事は間違いなかった。

伝説のサン・スタジオにも訪れた。
エルヴィス・プレスリーや、ジョニー・キャッシュが、初めてレコードを吹き込んだスタジオ。当時は、レコード一枚の録音代が四ドルだったという。

いずれにしても、このスタジオがアメリカの、そして世界中のポピュラー・ミュージックを一変させた事は、間違いないだろう。

私が、スタジオを訪れた時、すでにスタジオの体を成していなかった。
もともと、たいして広くもないスタジオは、テープやディスクは影も形もなく、訪問客はウィスキーとビールを呑んでいた。
二階が録音スタジオなのだが、古いシュアのマイクと、草臥れたドラムセットが並べられているだけだった。

エルヴィス・プレスリーは、一九三五年一月八日、ミシシッピ州テュペロで生まれた。
父ヴァーノン、母グラディスの三人家族である。
一家は、きわめて貧しかったが、父親は、プレスリーの十一歳の誕生日に、ギターを買ってくれたという。

高校卒業後、トラック運転手として働いた。
そして一九五三年の夏、前述したように四ドルを払って、アセテート盤に二曲―『マイ・ハピネス』と『ザッツ・ホエン・ユア・ハートエイクス・ビギン』―を録音した。
サン・レコードの社長サム・フィリップスは、エルヴィスの才能に感嘆したと伝えられているが、本当のところは解らない。

解っているのは、レコーディングをするはずの歌手がスタジオに現れなかったため、ピンチ・ヒッターとして、エルヴィスが呼ばれた事だけである。
サン・レコードは、エルヴィスと契約し、とりあえず五枚のシングルをリリースした。
曲はすべて、リズム&ブルースとカントリー&ウェスタンのカバーであった。