「哲学的な動物」の生存本能 ~人間が、考えることを辞めるとき

「自分の頭で考えよう!」

そんなキャッチコピーを、街中で目にする。 

書店にずらりと並ぶ自己啓発本、学習塾の勧誘文句、そして人材派遣の宣伝広告。あちこちで見かけるそのメッセージに、私はつい最近まで、なんら疑問を感じたことがなかった。

だが先日、漫画編集者・栗原良幸氏にお話を伺う機会に恵まれた際、ふと一つの疑問が頭をよぎった。 

「人が自分の頭でものを考えるのは、本当に幸せなことなのだろうか?」 

栗原氏は、32歳という若さで「月刊少年マガジン」の編集長に就任し、その後「モーニング」と「月刊アフタヌーン」を創刊した名編集者である。『沈黙の艦隊』、『蒼天航路』、『What's Michael?』、『天才柳沢教授の生活』など、数えきれないほどの名作を世に送り出し、作家たちから深く敬愛される、唯一無二の存在。

さらに、海外の漫画家の作品を日本の雑誌に継続的に掲載するなど、漫画文化の国際的な普及を押し進めた先駆者でもあり、2010年の文化庁メディア芸術祭で功労賞を受賞している。

いわゆる「クールジャパン」の名の下に、世間がなにかと漫画を担ぎ上げるなか、私は栗原氏に、漫画という表現方法について、そしてその海外における可能性について、しっかりと伺ってみたかったのだ。

私が用意した質問に対して、氏はその英知を惜しみなく共有してくれた。だが栗原氏の知見は決して漫画だけに留まらず、会話がじつに多種多様なトピックに発展するにつれて、私は氏の魅力にどんどん引き込まれていった。そして話題が、インターネット空間とデジタルコンテンツの将来性へと移ったその時、栗原氏が眼鏡の奥で目を光らせて、太い声でこう言った。

「僕は今の時代が、『デジタル中世』のはじまりと思っています」

この台詞を聞いて、私は漫画『青春少年マガジン 1978~1983』の一場面を思い出した。漫画家の小林まこと氏が、「少年マガジン」の歴史を振り返って綴ったこの自伝的作品には、当然、栗原氏が登場人物として描かれている。

『青春少年マガジン』102頁より (c)小林まこと

デビュー間もない小林氏の原稿を初めて読むシーンで、栗原氏は、緊張する新人漫画家にこう言い放つ。

「これは、危険な漫画だな。これを描くのであれば、音楽で描け!」

氏の突飛な発言に躊躇する小林氏のキャラクターからは、こんな心の吹き出しが出ている。

「この人は、よくわからないが、カッコいい言い方をする」

私は「デジタル中世」と聞いて、その言葉のカッコいい響きに圧倒された。だがその意味はよく分からず、恐る恐る、栗原氏に尋ねてみたのだ。

神に代わって社会に君臨する、デジタルデータ

西洋史における「中世」とは、一般的に、西ローマ帝国が滅びた5世紀頃から、ルネサンス文化が台頭した14世紀頃までの期間を指す。この時代について栗原氏は、人間が自分の頭で物事を考えずに、神に思考を委ねた時代だったのではと言った。

「人間は人間について考えず、ただ神を信じる心があればよい。多少乱暴ではありますが、そういう思考に、当時の人々は活路を求めたのではないかと思うのです」

ローマ帝国とルネサンスという、二つの華やかな文化に挟まれた「中世」を、一部の歴史学者は、「暗黒時代」と呼ぶ。それは当時の人間社会において宗教が中心的な役割を果たし、人間が神に救いを求めたために、文化の発達が一時的に足踏みしたという歴史観に基づく。

栗原氏は、西洋の宗教画を例にとって説明してくれた。

「中世の絵画では、神が必ず、構図の中心に描かれています。あとは神との関係性において、必要な要素だけが周りに配置されている。後にルネサンスになると、遠近法という、人間の五感に即した表現方法が使われます。神の存在ではなく、人間の感性が、表現の中心になるのです」

この説明は、私にもよく理解できた。

図A

例えば図Aは、十字架を背負ってゴルゴタの丘を目指すキリストを描いた、中世の宗教画である。栗原氏が言う通り、キリストは構図の中心に配置されており、さらにその重要性を強調するために、他の人物よりも大きく描かれている(キリストはしゃがみこんでいるが、その頭は直立姿勢の人間たちと同じ高さにある)。

同様に、この時代の西洋画によく見られる傾向として、人物がみな同じ表情で描かれている。つまりこの絵画は、キリストの受難に伴う苦悩や悲しみといった、人間的な感情を表現した芸術作品というよりは、新約聖書の一場面を、単に図に表したものに近いのだ。

図B

一方で、同じテーマを扱ったルネサンス時代の図Bを見ると、まずは構図の違いが明白である。主人公であるはずのキリストは中心ではなく、十字架の重さに押し潰されるように、キャンバスの下部に倒れ込んでいる。キリストを大きく、人間を小さく描くのではなく、手前の人物を大きく、背後の人物を小さく描く、巧みな遠近法が用いられている。

そして自らの処刑場に向かうキリストを見守る人々の顔に宿るのは、苦悩、怒り、あるいは悲しみの表情。このキャンバスは聖書を題材にしつつも、その一場面を切り出した情景描写に留まらず、画家が想像力と筆力を駆使して人間の感情を露にした、芸術作品へと昇華している。

ちなみに後者はルネサンスの巨匠・ラファエロの作品だが、前者の作者は不明である。ヨーロッパの絵描きが「芸術家」としての社会的地位を得たのはルネサンス以降であり、それ以前の宗教画には、作者名が記されていないものが少なくない。

中世ヨーロッパの人間社会は、美を表現するという自分たちの尊い能力を意識せずに、あくまでも神という絶対的な存在との関係性において、己を理解していたのかもしれない。

そんな「中世」が、今再び訪れていると栗原氏は言う。

そして今、神に代わって人間社会の中心に君臨するのは、デジタルデータ。この様子がすなわち、「デジタル中世」だと言うのだ。

デジタルデータは、我々の年齢、性別、出身地、そして現在位置をも把握して、我々が次に欲しい商品を、次に知りたい情報を、素早く教えてくれる。そして我々と、その周囲の人々の検索履歴、購入履歴、閲覧履歴をくまなく分析し、趣味趣向を言い当て、訪れたいはずの旅行先、聞きたいはずの音楽、見たいはずの映画を、痒いところに手が届く精度で、提案してくれる。

かつて社会の中心に君臨した神がそうであったように、デジタルデータは、人間が自分の生き方について判断を仰ぐ対象と、なりつつあるのではなかろうか。

栗原氏は言う。

「デジタル中世は巧妙に進んで、人間はなにも考えずに、与えられたものを甘受していればよくなる。人間が人間について、自分の頭脳と五感で認識することが、難しくなっていくのではないでしょうか」

デジタルデータに与えられた選択肢から選ぶことに馴れた我々は、やがて提示された情報の範囲内だけでしか、自分の感情を理解できなくなる。「泣ける映画」が観たい時はこれ、「笑える映画」が観たい時はこれ、と教えられるうちに、じつは泣きも笑いもしないが、なぜか心を激しく揺さぶられるような映画を求めていた自分の感受性を、我々は見失ってしまうかもしれない。

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