『存在しない小説』いとうせいこう・編
虚構に贈る虚構

存在しない小説』という七文字のメモから始まったのだった。

メモは〝存在しないラジオ〟から〝存在しない人たち〟の声がする中編小説のゲラ直しをしているくらいの時期、スマホのメモ帳に走り書きされた、と思う。

ラジオの話を書いている間中、精神的にきつかった。そもそも自分はそれを書くべきかどうか、根本のところに常に深い疑問があった。書いている毎日、疑問は去らなかった。

「この単行本の作業が終わったら、とにかく書いていて楽しい小説、読んでいて面白い小説を書きたい」と私は、重しがとれかかった状態でそう思ったし、実際前作が脱稿したあとだったろうが、すでに『存在しない小説』の六つの短編のタイトル、それぞれの話が展開する舞台のことまでスマホにメモってある。

前作にしっかりと集中すれば、ご褒美としてそれら〝存在しない小説〟をこの世に紹介出来る。〝翻訳〟して読者の前にもたらし得る。私にとって強いモチベーションがそれだった。私はこの『存在しない小説』のメモ作業に、まるで凍土の中を歩き続けた人が温かい風呂にたどり着くような安堵と悦びを見いだしていた。

先日メールの整理をしていたら、連載直前に『群像』の編集者とやりとりしている何通かが出て来た。そこで編集者は何編かをまとめて掲載したい、と考えていた。おそらく三編ずつを二回に分けて、であろうか。

しかし、結果的にはそうならなかった。『存在しない小説』は毎月連載された。理由はこれでわかっていただけるのではないか。私は一刻も早く書きたかったし、書いたものをなるべく早く読んで欲しかったのである。私が今回考える〝とにかく書いていて楽しい小説〟は、同時に〝とにかく読んでいて楽しい小説〟で、しかもなるべく早く読んでもらう必要があった。

私は自分という読者のためにも、素早い発表を目指した。ラジオに関する中編を読んだ人にも、〝一方で生の世界を描く小説をどうぞ!〟と言いたかった。けれども、今考えると私が想定していた読者は、そうした〝生の世界〟にいる一般読者だけではなかった。勝手に想像して書いてしまった(書きつつあった)〝存在しない人たち〟のために自分が言い訳のように出来ることが、面白い小説を思いきり書くことだった。そしてまた、それは小説自体に対する捧げ物のような気もした。虚構に贈る虚構である。

第一回は「背中から来て遠ざかる」。米国東部フィラデルフィアからニューヨークに向かう電車の中に、一人のイタリア系米国人がいる。それだけが私に与えられたイメージだった。どうしてそのタイトルなのか、今もって説明することが出来ない。