[虎四ミーティング]
大山加奈(元全日本女子バレーボール代表)<後編>「泣けるほど嬉しい木村沙織の成長ぶり」

二宮: 大山さんがバレーを始めたのはいつですか?
大山: 小学2年の時に地元のクラブに入りました。

二宮: 子どもの頃から身長が高かった?
大山: そうですね。生まれた時は体重3600グラムと、ちょっと大きいくらいだったのですが、気付いたら誰よりも身長が高かったですね。小学6年で175センチありました。

二宮: じゃあ、バレーボール選手としての周囲からの期待は大きかったでしょうね。
大山: でも、入ったクラブは名門というわけではなかったんです。私が入った当初は、全国大会に行けるような強いチームではありませんでした。先生もバレー経験ではなかったくらいですから。私が小学6年の時が初めての優勝だったんです。

二宮: 小学、中学、高校といずれも全国優勝と華々しい実績を残し、17歳で全日本入り。2004年にはアテネオリンピックに出場と、まさに順風満帆なバレー人生ですが、その裏ではケガとの戦いもありました。
大山: はい。中学時代から腰痛がひどくて、サポーターなしではプレーできませんでした。

二宮: 最も辛かった時期は?
大山: 何度も辛い時期はあったのですが、その中でも一番は07年のワールドカップの時でした。あの時は、真っ直ぐに立つことができず、腰を曲げて歩くのがやっとだったんです。

二宮: それほど腰痛がひどかった?
大山: 腰の痛みはもちろんでしたが、それはまだなんとか我慢できたんです。それよりも足を動かそうとすると、ビーッと激痛が走る。それがもう痛くて痛くて……。生きているのが辛くなるくらいの激痛で、もう耐えられなかったですね。

二宮: バレーどころか、日常生活もままならなかったのでは?
大山: はい。寝返りもうてませんでしたし、移動の時は、壁をつたいながら、ゆっくり歩くという感じでした。

二宮: 原因は何だったのでしょう?
大山: 脊柱管狭窄症とヘルニアです。

二宮: それでも07年のワールドカップ出場を強行したのは、翌年の北京オリンピックのためだった?
大山: はい、そうなんです。実はアテネオリンピックが終わった翌年、リハビリ期間を置いたんです。そこで正しい身体の使い方をいろいろと学んで、スパイクの打ち方も変えました。それまでは全球100%で打ち込んでいましたが、それを3割ほど抑えて打ったり……。どんどん自分のプレーが変わっていくのがわかりましたし、少し余裕をもってプレーできるようになったんです。自分の成長も感じていましたし、アテネでは何もできなかった悔しさがありましたから、どうしても北京に出たかった。それで無理をして、前年のワールドカップにも出場したんです。でも結局、腰痛がひどくなってしまって、北京の時は自分から代表を辞退しました。