第57回 高峰譲吉(その二)
人造肥料ビジネスに取り組むのも束の間、アメリカにわたり、「酒造ビジネス」へ

ニューオリンズから帰国した譲吉は、新設されたばかりの専売特許局に勤務することになった。

初代の特許局長は、高橋是清である。
是清は、幼時から横浜で育ち、外国人居留地で、さまざまな仕事に就いた後、ペルーで銀山の開発を試みたが、失敗し、無一文で帰国した後、日本の金融政策を長く掌った。
譲吉が、太平洋を横切っていた時、すでに是清は、特許局のあらましを造りあげていたのである。

譲吉の帰国と入れ替わるように、是清は欧米に出かけて、各国の特許事情の研究にとりくんだ。

是清の留守中、譲吉は益田孝を訪ねた。
益田は元旗本。維新後は三井財閥の指導者として長期にわたって君臨し、茶人としても絶後の存在として敬慕されている人物であった。

譲吉は、益田に、日本では、地勢上、大規模農業は成りたたないと主張し、人造肥料の生産を提議した。

譲吉は、アメリカで、燐酸肥料(過燐酸石灰)六トンと、燐鉱石四トンを買い付け、日本に持ち帰っていたばかりでなく、有志の篤農家に説いて、試験的に肥料として、使ってもらっていた。
成績はすこぶる良く、収穫が増えただけでなく、不衛生な人糞を用いる不便をも、免れることが出来たのである。

益田は、即座に、譲吉の意図を見抜いた。
化学的に肥料を造ることが出来れば、農業は飛躍的に生産高が上がるだろう・・・・・・。
益田は、財界の指導者たる渋沢栄一に、譲吉の企図が、食糧生産を飛躍的に伸ばすとともに、合理化出来ることを説いたのである。

かくして東京人造肥料会社が発足した。
渋沢栄一、益田孝、井上馨ら、財界の大物たちが、取締役に就いた。
資本金は二十五万円。
通称、深川釜屋堀とよばれた湿地を整備し、工場を建てた。

一八八七年八月十日。
譲吉は、キャロライン・ヒッチと結婚した。
ヒッチ家は、ニューオリンズでも指折りの資産家一族であった。
邸宅はふんだんなバラとシダで覆われ、婚礼には、地元の名士らが勢揃いしたという。