ホリエモン改め堀江貴文としての"処女作"『ゼロ』に伝えることへの執念を見た

2013年11月04日(月) 藤野 英人
upperline

 話は合理的だし、理論的。そして結論を急ぐコミュニケーションスタイルでしたが、損か得かではなく好きか嫌いかで動いている人であり、とてもシャイな理想主義者という印象を私は持っていました。

 合理的で理屈が通ることであれば、それは最終的には世の中が認めてくれるし、社会は最終的には合理的な方向性に動いていくはずだ、という強い信念がありました。
 そしてそれは今も変わらない堀江さんの信念です。ただ、収監前と収監後で大きく変わったところがあります。

 それは同じことを伝えるにもどう伝えるかが大事であるか、ということに気がついたことです。

 堀江さんが信じていたのは、何を伝えるかが大事だということで、その「何」にとてもこだわっていました。彼は一貫して、挑戦することの素晴らしさや起業のすばらしさを伝え続けていたし、そしてそれは当時の若者にはかなり正確に伝わっていました。
 しかし、提供方法が従来の価値観からは「乱暴で」「危険に」見えたので、彼の雰囲気やスタイルが気に入らない人には完全に曲解されていたように思います。

堀江貴文は気がついた

 しかし、堀江さんは気が付きました。何を伝えるかの前に多くの人は「誰が」伝えるか、「どう」伝えるか、を気にしているということにです。
 だから彼が伝えたい「何」を正確に伝えるには、「堀江貴文」という存在に対する共感が必要だし、話し方やスタイルそのものを変えていく必要があると感じたのです。

『ゼロ』の表紙には、白いシャツにネクタイをしめて、髪を短く切りそろえた「真面目な」堀江さんがいます。彼は今でもネクタイをすることそのものが好きではないと思いますが、おそらく堀江さんがこだわった「何か」を伝えるために、ネクタイをして表紙に出るという挑戦をしています。
 別にそれは既存勢力に対する服従の象徴ではありません。ときには自分のスタイルを変えてでも伝えたい「何か」を発信しようとする執念ですね。

 

次ページ  本の中には父や母との確執、プ…
前へ 1 2 3 4 次へ

このエントリーをはてなブックマークに追加 RSS
関連記事


underline
アクセスランキング
1時間
24時間
トレンドウォッチ