美術・建築
憧れと差別の狭間で ~ポール・ゴーギャンが描く偽りの楽園
寺田 悠馬

画家の素顔に無頓着な「ゴーギャン展」

ポール・ゴーギャン (1848-1903)  〔PHOTO〕gettyimages

ヨーロッパの侵略を受け、すでに文明に毒されていたタヒチに失望したゴーギャンは、植民地の現実からは目を背け、虚構の楽園をキャンバスの中に創造した。そこに描かれたのはタヒチの素顔ではなく、ゴーギャンの欲望そのものだった。

甘美な色彩の背景に、画家は半裸の女性たちを次々に配置してキャンバスを彩った。そんな空想の世界において、ゴーギャンによる一方的な侵略を妨げうるタヒチの男たちは、邪魔者でしかなかっただろう。だからゴーギャンが遺したタヒチ時代のキャンバスには、成人した男性の姿がほとんど描かれていないのではないだろうか。

征服者を従順に迎え入れつつも、なぜかいつまでも穢れずにいること。そんな理不尽な欲望さえをも許容してくれることが、彼がその地を「楽園」と呼んだ所以だったのかもしれない。

晩年のゴーギャンは、自らの欲望の醜さに気付く感受性を、もはや失ってしまっていた。

この作家性の衰退、そして精神の老い。そんなものを見せつけられる気がして、美術館に収められたゴーギャンのキャンバスを観ると、どうしても気持ち悪さを覚えるのだ。

そしてそれ以上に、ゴーギャンの醜い欲望を美しいベールにくるみ、豪華な額縁で囲うことによって、あたかも尊いものかのように見立ててしまう「アート」という文脈の、恐ろしさを感じずにはいられない。

画家の没後100年以上たった近年でも、東京国立近代美術館(2009年)、ソウル市立美術館(2013年)など、世界中の美術館で「ゴーギャン展」は繰り返し開催され、その度に大人数を動員している。そこで売り出される高価なカタログの中で、タヒチ女性に関するゴーギャンの生々しい手記が紹介されることは、決してないのだ。

だが度重なる「ゴーギャン展」が築き上げた偉大なる芸術家像は、ゴーギャンがキャンバスの中に築いた楽園と同様に、虚像に過ぎない。そして、偽りの楽園を生み出したのが画家の欲望であったように、巨匠ゴーギャンの神話を作り出したのは、じつは観客である我々自身の欲望ではないだろうか?

日常生活から目を背け、遥か海の向こうに浮かぶ楽園に逃避したいという、いつの時代も変わらない願望。未だ見ぬ楽園の誘惑に酔いしれるためには、そこで神秘の美を発見した偉大な芸術家の存在を、我々は信じていたい。そんな需要を満たしてくれるからこそ、「ゴーギャン展」は、繰り返し企画されてきたのだろう。