第54回 ノーベル(その二)
辞退する、反発する、賞金を寄附する―平和賞をめぐる「毀誉褒貶」

ノーベル各賞のなかで、もっとも毀誉褒貶が激しいのが、平和賞だろう。
なぜ、こんな人物が、と思われるような受賞者もいるからだ。

佐藤栄作は、一九七四年にノーベル平和賞を受けた。
日本人としては五人目のノーベル賞受賞者、そしてアジアでは(辞退者を除けば)初の平和賞受賞になったわけだが、当時、中学二年生だった私は、どうにも腑に落ちない思いだった。

何で、佐藤が・・・・・・そんな国際的栄誉を受ける資格が、あるのだろうか。たしかに、七年八ヵ月にわたって政権を担い、経済成長を推し進めた功績はあるのだろうが。

後任の田中角栄が、強いキャラクターの持ち主だったことも、影が薄くなる一因だったかもしれない。
天下の大秀才にして、恐るべき財政家だった岸信介の弟というポジションも、かなり居心地が悪かったと思う。
その地味さを武器にして、人心を掌握して、安全運転を心がけた地味さには、底光のするような魅力があったのかもしれないが。

さて、佐藤の受賞の理由は、非核三原則―持たず、作らず、持ち込ませず―の声明や、小笠原返還協定、核不拡散条約調印、「核抜き本土並み」沖縄返還協定を実現させた事、になっている。
一連の施策が、太平洋の地域の平和、安定に貢献したとして、ノルウェー・ノーベル委員会のアーセ・リオネス女史(ノルウェー下院議長)に評価され、受賞にこぎつけた。

前年に、平和賞を贈られた北ベトナムの政治家、レ・ドク・トは辞退した。
当時、国内では、なぜ佐藤なのか、という議論がかなりあったが、国際社会は日本が唯一の被爆国であり(だからこそ)、核不拡散を国是としている事を好意的にうけとったのだろう。

受賞に至るまでには、さまざまな推薦や運動があったとも噂されている。それでも佐藤の受賞は、戦後日本の国際的地位をゆるがぬものにした、と評価することは出来るだろう。佐藤は受賞演説で、賞金の半額を国連大学に寄附すると述べた。

アンドレイ・サハロフ博士は、一九七五年に、ノーベル平和賞を受けている。
ソ連が獲得した、最初の平和賞だったが、その受賞は「祖国」では歓迎されなかった。

モスクワの物理学教師の息子だったサハロフは、優秀だったために兵役を免れ、軍需工場の技師になる。原子物理学に興味を抱き、アカデミー物理学研究所で博士号を取得し、イゴール・タムと共に熱核反応理論を発表して、三十二歳で科学アカデミー会員となり、「水爆の父」と称された。

サハロフは当初、水爆とミサイルの組み合わせに疑念をもたなかったが、アインシュタインによる核の脅威にたいする疑念に接し、スターリン批判以降、政府に核実験中止を求める書簡を数度にわたって送り、フルシチョフを激怒させた。一九七三年、当局から召喚され警告を受けている。