第52回 長尾よね(その三) 戦争での被災と巨額の財産税―一代で築いた財産を、一代で使い果たした

よねは、相撲が好きだった。
昭和七年、相撲協会は、天龍、大ノ里らの、相撲改革運動により、分裂に追い込まれた。
力士の頭数が揃わず、十両を幕内にしてしまうような糊塗が行われ、大相撲の権威は地に落ちた。

よねは、窮乏した相撲協会に一万円寄附したという。
祝儀を貰い慣れた役員たちも、さすがに驚いた。
場所中、毎日、中入りから、よねは桟敷で観戦した。時に、行司の裁きに不審を抱くと、大声で叱った。

贔屓の力士には、化粧廻しをいくつも送った。
四股名を染めた浴衣を百反も作らせた。
よねは、美術にも造詣が深く、北大路魯山人の才能―人品はともかく―を買っていた。
当時、魯山人は、本拠地だった星岡茶寮から放逐されて、困窮をきわめていた。
何とかしてやらなければ・・・・・・。
金を渡すのは、造作もないことだが、それでは智恵がない。これほどの才能をもっている人間には、もっとふさわしい扱いがあってしかるべきだ。

よねの発想は、奇抜だった。
「わかもと奧さま券」という販促キャンペーンを考えだしたのである。
「わかもと」の販売店に対して、売り上げに応じて、銀座『ちた和』の着物や帯とともに「陶芸界の巨匠」北大路魯山人先生の徳利や鉢を差し上げるというのである。

当時、魯山人がみずから運営していた『魯山人鉢の会』で、鉢一点の価格が十五円だったという。それほどの逸品を無料でもらえるとなれば、はりきって売るのも、当然の事である。

昭和の陶芸家といって、一番に名前が挙がるのは、やはり魯山人であろう。それは、彼の技芸が優れているのはもちろんだが、それ以上に彼が多作であったためだ。多くの逸品があれば、自然とその評価はあがらざるをえない。
此は、パブロ・ピカソと同様の現象だろう。ピカソはたしかに天才であるが、それ以上に底抜けの多作家だった。多作である故に人口に膾炙し、また人目にも触れたのである。

昭和二十年八月十五日、戦争は終わった。
わかもと本社は被災し、丸ビルに一時、事務所を構え、ついで木挽町に移った。
砧の工場は焼け残ったが、共産党に指導された労働組合に牛耳られていた。

巨額の財産税が課せられた。
よねと欽彌の手に残ったのは、桜新町の本邸と近江の別荘、本阿弥光悦が棲んだという京都の鷹ヶ峰、南禅寺の別荘と、長尾美術館のコレクションだけだった。